物書き医草稿集 Ver.5-1
  1. 巻頭言 (安藤潔)
  2. 開業医、はじめは皆、勤務医だった (小島龍也)
  3. 医療の多様性 (外山学)


巻頭言
○巻頭言
 大学病院勤務医から街の開業医となり、地域医師会の活動に参加してみて、マスコミ報道からは伝わってこない医療の現場の地道な取り組みに驚きました。近年、メーリングリスト(ML)を通じて全国各地の様々な職種・年代の方々と情報・意見交換をしてみると、開業医の実像と虚像とのギャップにモドカシサを感じるのは私だけではない、また、医者だけではないということが判りました。そこで今回、全国各地の40歳台の開業医の方々に呼び掛けて「物書き医」MLを発足、2ヶ月間に1300通を越えるメールをやり取りしながら、1)医者と患者、2)開業医と組織、3)開業医とマスコミ、そして4)医療と政治について、「現場の開業医から皆さんへ」という特集の執筆を試み、その一端をオフミ(off line meeting)で他職種の方々にも問い掛けてみました。その成果を一部ネット上討論として御紹介します。


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開業医、はじめは皆、勤務医だった
○初めはみな勤務医だった
 医師は開業して自らのオフィスを持ち、医業を行うことが出来ます。しかし、医師国家試験に合格したばかりの新卒医師では、まだ実際に医療を行う臨床の力や経験がありません。そこで普通は「研修医」として病院に勤務し、新米医師として実地教育を受けますが、将来専門医になって狭い分野を深く診るのか、一般医として浅く幅広く診るのか決断をして、それに応じた教室あるいは医局を選択しなければなりません。出身大学が教育者、研究者を養成することを主な目的として設立されているのか、開業医を養成する目的で設立されているのかによっても違いますが、私の場合は前者でしたので開業は全く頭にありませんでした。後者でもまず何らかの専門(内科、外科、眼科などの)を選び、専門医の卵としての卒後教育を受けるのが普通で、専門分野でシゴカレながら幅は自分で広げる、という具合でした。とりあえず専門医教育を受けておけば、一般医(何でも屋)になら後からでも簡単になれるという、一般医軽視、専門医こそ目指すべき道という雰囲気が濃厚な時代でした。従って現在の中堅開業医の大半は「専門医教育を受けた臨床医で、且つ何らかの専門分野でのかなりの実績を積んだ専門医である」ということになります。
 医学部では全ての科が必修で、卒業時には広く浅く診療するのに基礎となる一応の知識は持っています。しかし新卒医師が或る科に入局すると、他科のことについては医療過誤の問題もあって、他科の医師に任せ自ら考えることは少ないです。たとえば眼科の研修医が婦人科疾患を診て自ら判断することは殆ど無いのです。ひたすら自分の専門分野の研鑽に励むことになります。専門医教育は専門バカを養成する教育でもあります。その専門の中で教授、助教授、講師、助手、、、研修医、あるいは院長、副院長、部長、科長、医長、、、研修医というヒエラルキーが確立しているのです。今でこそ卒業当初から一般医を目指し出来るだけ多くの科を広く研修する道がわずかではあれ開けてきてはいますが、一般医、家庭医など開業医に要求される「一応何でも診ることができる」資質は、専門医養成教育のなかで、個々の医師が自力で養うしかなかったのです。

○専門医が開業する時
 さて、医師が開業を意識する時期は、なぜ医師になったのか、どこで医学教育を受けたか、どのような教室に入ったか、親の家業は何かなどによって異なります。親が開業医で地盤がある場合、開業は覚悟の上であまり違和感がないのかも知れません。しかし開業が全く頭になく専門を究めて助教授、教授になる運命と思いながら研究や教育をしていた専門医が、ある日「開業しよう」と思いたつに至る理由はなにか。私自身の経験をお話してみましょう。

(1)仕事の内容と自らの目的に乖離がある。
 母校の国立大学に在職中は文部教官という立場ですので、臨床、教育、研究、の3つの責務があります。教職ですから研究と教育は当たり前、加えて医師でもありますから臨床もやる。各仕事に8時間を割きますと、1日24時間働くことになります。
 身分的には文学部などの臨床等の仕事がない教官と同等です。勿論、給料、研究費は旧文部省から出ます。しかし医学部の教育では学生、研修医とも手取り足取り、生きている患者さん相手の実習が主体です。研究と臨床は表裏一体です。臨床に生きない研究など意味がない。臨床は省略できません。しかし臨床の場(大学附属病院)は旧厚生省の管轄です。診療報酬は厚生省に入るが、人件費、薬代、材料費などは旧文部省から出るという妙なシステム。文部省は「文部教官の本分は教育と研究にある。診療は義務ではない」、厚生省は「もっと稼げ。さもなければ看護婦などのスタッフを減員しますよ」。これでは「どうすりゃいいのさ」です。私学ではこんな理不尽はありませんが、稼ぎながら研究、教育に忙殺されることは同じ。大学病院でなく一般病院ても研究、教育、臨床の三つは避けられません。多忙きわまりない。これはヒエラルキーの頂上にいても避けられないことですし、臨床医学の特性です。
 大学での仕事は面白いのです。挑戦的な手術、学会での論争、研究や実験、教育、どれもエキサイティングです。そしてそれが自分が医師になった動機と合致していればいいのですが、ヒエラルキーを登ることが目的になってくると、そもそも医師になった動機、「患者さんの苦痛を取り除きたい」、「病気の本態を突き詰めて完治させる方法を開発したい」に乖離が生じてきます。また人間の体力、気力には限界があります。自分のやりたい臨床からかけ離れた業務の多忙さに燃え尽きたとき「開業して臨床と自分のやりたい研究に専念しようか」と私は考えたのです。

(2)自己を通せない
 何年か研鑽を積み専門医となると、倫理や哲学の絡んだ複雑な領域だけに、研究の分野でも臨床の分野でも上司や経営者と意見が対立することがままあります。上司や経営者の方針に真っ向から反対することはヘイチャラなのですが、無駄な圧軋には消耗します。協調性はどこの世界でも必要ですが組織は時に非情です。かといって自分の倫理、哲学に反する指示には辞めても従いたくない。教授、部長など専門臨床分野のヒエラルキーの頂上に立っても、より上位の門外漢の理不尽な指示に従わなければならない場合がしばしばあります。即ち、「教授」でも文部省の一「課長」に過ぎません。ヒエラルキーを登り詰めても多寡が知れているのです。自らの独創性、倫理観、哲学に立った自ら納得のいく医療を自由に展開したいと考えた時、専門医は「零細企業でも一応社長」の独立開業を考えます。

(3)管理業務は私がやりたい仕事ではない
 大学教官や勤務医の道を選んだ場合ヒエラルキーを一段づつ登り始めます。すると経営や組織の運営など本来の臨床医学と乖離した責務が増えてきます。このような管理職業務も組織で働くには重要な仕事ですが、このような業務が好きなら知らず、そうでなければ仕事が苦痛になってきます。

(4)リスクを犯しても自立するか
 勤務医でも、多忙に耐え、自己を殺し、やりたくもない管理職業務を我慢して続けている医師は大勢います。開業して独立することは夢であっても、成功する保証はありません。潰れる医院も少なからずあります。ここでリスクを覚悟で踏み切れるかどうか、その度胸があるか。これは大きなハードルです。

○開業して得るもの
(1)自由(自分で納得できる診療スタイル)
 開業してしまえば院長で(小遣いさんでもありますが)、経済的には報われなくても専制君主になれます。教授に無理難題を押し付けられることは無くなります。教授だったり院長だった人でも開業すれば、文部省や地方自治体など、より上位の指揮系統からの理不尽な無理難題から逃れられます。聞く耳を持たない無責任な巨大官僚組織を相手に、まっとうな医療を実践する報われない努力をする無駄が無くなるのです。あとは保険制度の朝令暮改なルールから外れなければ、医療をどのように実践しようと勝手です。最も良質な医療を提供することが自己実現の方法であるならば、自ら納得できる医療を展開できる自由は開業によって得られる最大の享受です。

(2)患者さんとの人間的つきあい、地域との結びつき
 勤務医の時は近所で誰か急病になろうとも、専門医の私には関係のないことでした。しかし開業してみると、”街中が病棟だ”と感じる日があります。「3丁目のお婆さんが転んで立てない。ちょっと来て診てよ。」と電話があれば自転車に飛び乗って診にいく。ありゃま、内側型の大腿骨頚部骨折だ。人工関節にしなきゃ。この外傷はA病院のB先生がいいだろ、とか瞬時に判断して電話です。
 勤務医時代に開業地域の病院の内情などは熟知していますから、患者が私自身の家族だったらどこに頼むかな?という観点でベストマッチの病院に頼むことが出来ます。医師を個人的にも知っているし、ましてや相手が大学のクラブの先輩や後輩なら相当な無理も通る。患者さんが知らずに不適切な病院を初診、合併症の山、医療費の無駄使いを見掛けますが、心が痛む。私は特に地域医療に貢献したいなどと考えて開業したわけでなかったのですが、こんな仕事は余人を以て代え難いことに開業して始めて気が付きました。

(3)きれいな空気
 勤務医はよほどストレスが多いのでしょうか。私は医局や医師勤務室が嫌いでした。タバコの煙がモウモウとしていた。私の診療所は完全禁煙です。これは純粋に嬉しかった。

(4)学閥を越えた連携
 以前の開業医は学閥の系列とか個人的付き合いのある医師としか交流がなくて、孤軍奮闘だったのでしょう。勤務医でも他院にもっと優れた医師がいると知っていても、自分の患者を自院の信頼できない医師に依頼しないと、どうも人間関係がギクシャックすることもあります。今はInternetを通じて、学閥も時空も乗り越えた意見交換や交流が出来ます。一つの大学や病院がいかに優れていても、すべての分野に優れることはあり得ない。人的資源には限りがあるのです。開業してしまえば学閥のしがらみに因われないで、日本全国、いや世界中からでも、知的、人的資源を調達しても構わない自由があります。

(5)効率、小回り
 小舟のような診療所と大艦巨砲主義の大病院との圧倒的な違いは効率でしょう。診療所は小さいので小回りが利く。私の母校の大学病院では外来棟新装に際し、1患者1カルテ、診療録(カルテ)は画像とともに中央管理となりました。カルテや画像が散逸しないこと、他科での診療内容が分かることは大きな利点ですが、患者が受付に来てからカルテを出すのに2時間掛かる。内科に行ってからついでに整形外科に掛かろうとすれば、カルテは一度カルテ管理室を経由しますから、運が良くても4時間は待たなければならない。循環器内科から「背中が痛いのは整形外科で精査してください」と回されて来て、整形外科で心電図や血液検査を行って、「診断は心筋梗塞です」と内科へお返しすることもある。同じ病院という組織のなかにあっても、組織が巨大すきて機能不全を起こしている。対して診療所であれば院長の自己責任において直ちに改革しても構わない。電子カルテの導入だって1カ月も準備すれば可能です。診療所はフットワークが軽い。

○開業して失う物
 開業して失うものってまあ少しはあるのでしょうね。
(1)社会的地位
 今まで大学病院や大病院のそれなりの地位に居たのに、商店街の親爺さんになるのですから、社会的地位を喪失したと考える人もあるかもしれない。大病院の先生様から、町医者、藪医者の仲間入りですから。都内の多くの大病院が関連病院ですから、いろいろな話は聞こえてくる。大病院の後輩下っ端医師が「町医者なんかに掛かって」とか、患者に言うことがある。
 欧米のシステムをちらと考えてみたら、完成した専門医がPrivateOfficeを持つのですね(一般医の開業は専門性は低いですが)。この場合開業は藪医でなくて一人前の医師の証です。開業医の回診前にはResident達はRegistrarの指導を受けながら必死で下調べ、Presentationで緊張しまくりです。今や日本もその移行期ではないでしょうか。かつて私が所属していた医局でも「開業などとんでもない。落伍者がなるもの。まともな医師なら関連大学の教授になって日本の医療、研究、教育の指導者になるのが当然」という雰囲気が濃厚でしたが、医療改革が言われるほぼ5年ほど前から、指導的な専門医がどんどん開業してしまい、今や関連病院の指導体制も随分、弱体化して来ています。医局人事も様変わり著しい。病院主催の研究会も開業医が研修医などの下位の医師を教育する場なのかと思うこともあるくらいです。これはここ数年の大きな変化です。当分は混乱が続くでしょうが、学識経験のある開業医に臨床教授でも押しつけないと、臨床水準を保てない時代が目前に迫っているように見えます。
 勿論、全ての病院が地盤沈下したのではなく、医師の裁量や専門性を尊重してくれる居心地のいい病院には、まだ臨床能力に優れた勤務医が残っていますが、事務官の権限が不当に高い一部の公的病院などまさに「空洞化」そのものです。「張り子の虎」の社会的地位の喪失を、実質的な喪失と考えるかどうかは、考え方次第ですが、事情を知らない患者さんは大病院の先生様のほうが偉いと思うようです。実は開業する実力のない医師が大病院にしがみついているだけ、ということがままあります。

(2)箱物の権威
 開業すれば、普通は勤務していた頃と較べてはるかに質素な建物や医療機器にならざるを得ません。患者さんは、立派な建物に最新式の医療機器が揃っている病院なら安心と考えるようです。単に近いから通院してくる患者さんもいますが、「こんなアバラ屋に専門医が居たの?」と遠方から通院してくる患者さんもいます。最近の病院事情を知らない患者さんは安心を求めて大病院に掛かることが多いでしょう。しかし治らない。そこで本当の専門医を求めて、市井のわが診療所に辿りつく患者さんもいる。医療レベルは建物や設備で決まるものではない。この単純なことに気がつくまで患者さんが延々と彷徨うこともよく見かけます。

(2)経営責任。庇護はない。
 新規に開業するには、まず5000万円や1億円程度の資金が必要です。大抵は高額な医療機器を揃えるのに四苦八苦、都市部では箱物を借りるだけでも大変です。日進月歩のこの分野、継承ですら医療機器の更新などで借金する場合も多いのではと推測します。銀座に自分のクラブを開店するママさんみたいなものですが、パトロンは普通居ません。勤務医にそんな開業資金があるはずがありませんから、銀行から借金しなければなりません。一方収入は安定しません。休日が多かったり、天候が悪ければ患者さんも受診できません。この場合、収入は減ります。また医師が病に倒れたりすれば、収入はなくなります。
誰も庇護してくれない。しかし職員の給料や借金返済は待ったなしです。幸い黒字であっても、診療報酬は円単位まで捕捉されていますから累進課税に悩むことになります(まあ赤字でないだけ贅沢な悩みというべきか)。日本は資本主義国家ですから、経営は全て個人の責務、市場原理に晒されます。しかし、医療は今どき珍しい社会主義です。一部の例外を除き診療行為に対する対価は国家統制下にあるのです。多くの病院が赤字が当然という、どう考えてもおかしな医療システムの中での厳しい医療経営です。ここで黒字を出すような経営の才能を開発しなければならないのです。また自分自身の退職金や、年金の不足部分を、勤務医時代とさして変わらない可処分所得の中から確保しなければななりません。勤務医と較べて経済的に楽になった実感は全くありません。

(3)臨床、研究の挑戦
 大学病院の臨床、研究そのものは面白い。それを敢て放棄しなければならない。非常勤講師などの身分で挑戦的な手術や研究の指導を継続することは可能ですが、開業医は片手間でできる仕事ではない。毎日くたくたになって帰宅です。従って大学に常勤していたときと比較すれば研究に取り組む時間やエネルギーは減らさざるを得ません。基礎研究に優れた才能のある人材を、適性があるか不明の経営者に仕立て上げることで、基礎研究において日本は大きな損失を出しているのではないだろうかと思います。

○経営
 私の経営スタイルは一般とかけ離れているので、あまり参考にならないかも知れません。普通はできるだけ立派な建物、最新の設備で開業する。しかし私は敢てそうはしませんでした。診断機器など他院のを使えばいい。自分でMRIを備えるなど不合理と考えたからと、借金返済のためにムリな働き方を強いられるのは嫌だと考えたからです。収入は少なくても支出が少なければいい。贅沢をする為に働いているのではない。生活できればいい。その意味では経営はうまくいっています。しかし1日が終わるとくたくたです。時間に余裕を持って自分のスタイルで診療したいのに忙しく働くのは不本意ですが、開業の目的は達成出来ているので、この経営の問題程度は自由を得る為の代償と考えれば納得できます。

○定年
 定年を定めている国もありますが、学識、経験は暦年齢で決まるわけがない。経済誘導(医師の数と医療費の正の相関関係)以外に理由があるとは思えない。暦年齢で定年を定めることは知的資産の損失です。医学の進歩について行けなくなったら、私はその医師は辞めるべきと考えますが、第三者にその医師が時代遅れかどうか決定できるとは思えません。患者さんが来なくなればその医師は定年、と考えれば十分と思います。


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医療の多様性
○日本の医療の多様性
 国民皆保険制度及びフリーアクセスが維持されている日本では、保険証を呈示すれば殆ど何処の医療機関でも、同じ価格の診療や処方を同じ給付率で受けることができる。しかし、行われている医療自体は必ずしも均一ではない。私は北海道から大阪に移り住んだが、人口密集地と過疎地とでは医療を取り巻く社会環境も、患者さんの気質も、そして医療機関や地域医師会の在り方も異なるのである。そして今回、「物書き医」MLで各地の開業医とやり取りしてみると、例えば同じ人口密集地でも関西と関東では医療にかなりの温度差があるばかりか、同じ都内でもオフィス街、歓楽街、住宅地ではニーズが異なるのに驚く。いずれも何らかの歴史的経緯と必然性があり、紙面の都合で詳細は割愛するが、多様な実態の一端は各稿を読めばお判り頂けると思う。そうした医療を受ける側と提供する側、双方の様々な多様性を内包しつつ、日本の医療はWHOでも高く評価される成果を挙げてきた。このことは素直に認められて良いと考える。

○標準化と多様性
 近年、EBM、クリニカル・パス、ガイドラインという外来語がもて囃され、いずれも「医療の標準化を念頭に置いた”医療の無駄”削減に繋がる言葉である」と巷では理解されている。確かに最低レベルを保証し全体の底上げをする為には、標準化の手法は有用であろう。しかし、医療における多様性は工業製品のバラツキや誤差などの無駄とは同列ではなく、基本的人権の進化と言われる自己決定権を含めた個性(人間性)の尊重として扱われるべきである。標準化できること(すべきこと)と、できないこと(すべきでないこと)、この両者を常に念頭に置いて整理する必要がある。医療の標準化(レディーメード)と個別化(テーラーメード)は、本来の主旨からすれば決して矛盾した命題ではない。「標準化」はより高次元で「個別化」する為の重要な基礎なのである。

○多様性と医療問題
 開業医の視点から医療問題の議論を眺めると、「無駄論」や「情報開示(カルテ開示)」のように、イメージや理想(理論)と複雑な実状との解離が目に付く。多様な現場と、政策立案や理論構築の立場がキチンと噛み合う為には、勿論、組織には縦割りと非難されても守らざるを得ない”混沌を調整する役割”があるものの、組織を構成する個々の立場では多種多様な情報を発信し、それに基づきオープンな意見交換をして、インターネットという時代に相応しい広い視野で物事を判断する、という試みがもっと為されても良かろう。それが為された時、複雑な医療問題の解決に初めて光が射してくるのではなかろうか。

○多様性を、前向きに社会を変える力に
 この社会を構成する各地域では、保健福祉介護は勿論、教育との連携も重要となっている。即ち、喫煙の低年齢化など純粋に医学的立場からも、death education のように人間としての価値観(死生観)の構築という観点からも、その必要性が問われている。また、表1に示した小児救急の問題の如く、社会環境の改善抜きには解決できない問題もある。そして恐らく、保健福祉介護や教育の現場からも医療に対して同様の地域連携を求める声があろう。
 今回、「医療を通して身近な社会を少しでも変える事が出来れば、ここでの仕事がここでしか生きてゆけぬ人達のどこか心の支えになれば、と考えて仕事をしている(諸橋)」という意見があった。これは夫々、各地で様々な医療を行っている「物書き医」メンバーに共通した思いである。こうした思いが地域・職種・世代を超えてコミュニケートし、それが社会を変える前向きの力になれば、いずれはひとりひとりの個性を尊重した社会作りに繋がるものと考える。

(表1)小児救急の問題
 近年の核家族化や、男女平等と深刻化する不況に伴う共働き等による子育て環境の変化で、受診者側には時間外受診せざるを得ない状況がある。しかし、医療側にはこの厳しい医療情勢の中で、医療資源、殊に人的資源は有限であり、24時間、何でも受けるなどと言うのは机上の空論、という厳しい現実がある。それらを踏まえた多様な立場からの、建前論ではない腹を割った議論が行わなければ、「小児科医は苦労が多い割に儲からないから成り手が居ない」という短絡的な報道で片付けられ、医療従事者はボロボロになるまで働いているのに救える子供も救えない、という悲劇が続くだろう。


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