物書き医草稿集 Ver.5-2
○ 医者と患者
  1. はじめに (栫井雄一郎)
  2. 患者の理解度 (今井健介)
  3. 医者との信頼関係 (今井健介)
  4. 情報開示について (外山学)
  5. 医療の無駄 (川島理)
  6. 医者と患者 (栫井雄一郎、他)


はじめに
 ここでは「医者と患者」というテーマで物かき医の皆さまにお話をして戴きたいと思いますが、なにしろ守備範囲の広いところですので、まず頭の整理から始めたいと思います。
 医師と患者は、同じ人間同士の対人関係の一部ではありますが、ここでは纏めやすいように人としての個人の問題(個別主体因子)・相互の関わり(空間因子)・全体の流れ(時間因子)の三つにわけて考えたうえで、「医者と患者」の部分全体を論文と座談会の二本立てで進めるということで御了承いただきたいと思います。

1、人としての個人の問題について
 いうまでもなく人それぞれ持ち味がありますが、健康管理面においては、一病息災という言葉もあるように、多少の課題を抱えているほうが結果的にうまく自己管理できる場合が少なくないので、病気などの課題を悪いことという視点だけからみるのではなく、自分なりに自分とどれだけうまくつきあっていけるかを工夫するべきであり、結果的にその人なりに自分の持てる力をどれだけ発揮できるかが大切になりますが、医師自身も自らの心や体に責任があるという点では何ら他の人と変わることはありません。
 課題は人によって違いますが、どこまでいってもそれなりに『やるべきこと』はありますので、自分なりにできることをやって、各自が自分の持てる力を発揮することが社会全体が良くなる為の基本です。
 医師個人については、医師として独り立ちするには医学部卒業後かなりの年月がかかる上、医療の進歩に遅れないようにして自己を高めていく為には絶え間ない自己研磨を要求されます。
 この問題に関連しては、座談会とは別に今井先生に「患者の理解度」というテーマで纏めて戴きました。

2、相互の関わり
 医療は、主に医師と患者の間で展開されるものですが、それがどのようなものであるべきかは整理しておく必要があります。
 教育が生徒の為のものであっても教師の指導の元に行われるように、医療は医師の管理下の元に行われるものであって、教師と生徒の間に違いがあるように、医師と患者の立場の違いを明確にする必要がありますが、生徒も患者も教師も医師もお互いの関わりあいを通じてより良い方向に向かうことが望まれるところです。これについては課題が多いですので、今井先生に「医者との信頼関係」、また外山先生に「情報開示について」というテーマで別に分科会を持っていただきたいと思います。

3、全体の流れ
 治療全体には、検査などにより病状を理解して治療方針を決めるようにそれぞれ個別の流れがあります。1回の治療場面でも起承転結がありますが、治療全体には治療終結後の自己管理の問題なども含めた大きな流れがあり、無理なくより好ましい選択をして患者にあった治療や自己管理のやり方を選択して指導していくには、医師の技量や治療方針だけではなく、患者さんや周囲のあり方も問われてきます。川島先生には、少し視点を変えて「医療の無駄」ということで分科会を開いて戴こうと思います。

簡単に纏めてみましたが、その他にも治療スタッフの協力や社会状況などが絡んできますので、最後の座談会の中で先生方の御意見を伺いながら、明確にできる部分については多少なりとも取り上げていきたいと思います。


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患者の理解度
1)現在の医療に対する患者の理解度について

 患者と医者の間に好ましい信頼関係を築くに当たり、受けている医療に関する患者の理解度は重要である。厚生労働省の平成8年度受療行動調査(http://www1.mhlw.go.jp/toukei/h8jyuryo_8/00-00.html)の「患者の理解度と満足度」によれば外来において医療に関する説明の内容が「わかった」と答えた患者は8割に達するという。しかしこのうち「よくわかった」とした患者は40.7%であり、「大体わかった」が43.0%であることが興味深い。経験上も「大体わかった」ように見えても実はよく理解していなかったり、説明を誤解していたりということがしばしば見られるからである。
 外来診療の限られた時間の中で説明を患者に理解してもらうためには、医者側が何を成すべきかとともに、患者側に基本的な知識を持ってもらうことが重要である。そのために正しい医療知識の啓蒙はもちろん、現在の医療システムに対する正しい認識を持ってもらうことが必須である。

2)正しい医療知識の啓蒙

○医療現場での医師側からの説明

 診察室の説明で十分な理解が得られれば理想であるが、第一線の現場での限られた時間では限界がある。そのために医者側は、医学用語を極力平明な言葉に置き換えた説明、図表・模型を利用したり、文書を用いた説明を心掛けるなどの努力が必要がある。特に慢性疾患の指導などはなかなか口頭では理解し切れず、医者側も説明落ちが起こりがちである。最近はパソコンの普及により視覚に訴えるパンフレットもカラー印で簡単に作成出来るのでこれを利用しない手はない。上述の受療行動調査の分析結果「病気や薬についての説明に対する患者の理解度と満足度」を見ると、説明書をもらって説明を受けた患者は、もらわずに説明を受けた患者よりも「よくわかった」と回答した割合が多くなっている。
 しかしこのような努力を怠らないことは大前提とした上で、現状では医者側の能力・時間にも限界があることを正しく認識すべきである。

○自己管理と自己責任

 医者に納得行く説明を求めるのは患者の当然の権利であるが、医者への過度の依存心があると患者はなかなか自立できない。一方依存心がなさ過ぎると、えてして一人よがりの解釈に陥る危険性がある。患者の適切な自立を計るためには自己管理の指導が必要であり、医者側に医療従事者としての責任があるのと同様、患者側にも「自己責任」があることを建設的な意味で認識してもらうことが大きな意味を持つと思われる。
 患者自らの意識が前向きになれば、医者の説明を単発的な「情報」でなく自分の身体についての「知識」にまで高められる可能性がある。そしてさらに自己責任を全うするために「自分なりに整理統合して実践する」ところまで踏み込むことになれば、「病気を治すのは患者さん自身、医者は良きアドバイザー」という、ある意味での両者の理想像に近づけるのではないだろうか。

○各種メディアを介した啓蒙

 家庭用医学書や医療従事者による書籍、テレビやラジオなどを通じて多量の医療情報がもたらされており、これらを正しく利用できればかなりの知識を得ることが可能である。しかしこれらは一方向性のメディアであり、欲しい情報が欲しいときに得られるとは限らない。
 その点で近年利用者が爆発的に増えているインターネットによる情報提供は、今後医療情報提供の主流となる素養を備えていると思われる。すでに1990年代半ば頃からホームページなどを介した情報提供が行われて来たが、最近では電子メールを利用したメールマガジンなども試みられており、今後が期待されるところである。
 ただしインターネットに乗ってもたらされる情報は、その量が膨大であること、情報の質が玉石混淆であることなど、その中から必要なものを取捨選択する難しさが新しい問題点として前面に現れてくる可能性は高い。

3)現在の医療システムに対する正しい認識

○保険診療と自由診療

 本邦では国民皆保険を謳っており、どの医療機関でも同じコストで同じ医療が受けられるシステムは誇るべきことと思われる。しかし一方で保険診療が「当たり前」になり過ぎ、本来分別されるべき保険診療と自由診療の境目が被保険者側の意識の中で曖昧になっている。

○保険診療が「契約」に基づく医療であることの認識

 そもそも保険診療とは契約関係に基づく医療である。従ってこの枠内で行われる医療には制約があり、契約外の医療は保険診療では扱えない。この事実を被保険者である患者側はもっと知る必要があるし、保険者や行政も現場任せでなく、知らしめる努力をすべきである。
 保険契約による診療には自ずから種々の制限がある。ある薬剤や検査などが保険で扱えるのは特定の疾病に限られること、それが「契約上の適応」であって必ずしも臨床医学上の常識とは一致しないこと、その中で医者側が様々な苦労をしていることを理解してもらうことが医者と患者相互の信頼関係構築に必要であろう。


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座談会「医者との信頼関係
○質問や相談のしやすさに満足している者は五割強

今井:平成8年および平成11年受療行動調査の「外来患者の満足度」によれば、「医師への質問や相談のしやすさ」に「満足」している者の割合は各々51.9%、56.3%、五割強です。「医者と患者のコミュニケーション」の改善が叫ばれている今日、この数字は多いと読むべきか、それとも少ないのか。第一線の現場の医者たちはどのような努力をして来ているのか。皆さまのご意見を伺いたいと思います。

○患者という立場、医者という立場

今井:まずは「患者さんとの関係」において、心がけてらっしゃることをお話しいただけますか?

澤村:医療人から見れば医者は科学者・研究者・教育者であり経営者でもありますが、患者側からは施術者として期待される事が多いのではないでしょうか。痛みや悩みを持って医療機関を訪れる人は、早くその苦痛から逃れたいと思っています。術を施すことは患者さんの身に触れることでもあり、私はなるべく患者さんに触れることでコミニュケーションを取ろうと心がけています。

川島:耳鼻科の観点からすると、子供が多いですから小児科の要素が必要になってきます。長く通院する必要のある子供とは、お友達の関係を築くことが肝腎です。うまく行くと仲良しになって、治療もうまく行く。

栫井:私の場合は、患者さんにいかに積極的に主体的に病気に取り組んでもらうかということを大切にしますが、このことは患者さんのわがままを通させるということではなく、治療的に好ましい方向に治療者が導いていくことが必要です。

今井:臨床の現場に於ける極意であると思います。ただ患者さんに主体性を持ってもらおうと思っても、お年寄りの方などの中には「黙って俺に着いて来い」的な医者の方を好まれる方もおられて、「顔」の使い分けに苦労しますね。

天野:私なんぞはとても顔を使いわける能力がないので、ワンパターンの対応ですねぇ。それで相手が私を気に入ってくれれば通院を続けてくれるし、気に入らなければ他院に・・・「患者さんに選んで貰う」。こちらも患者さんを選んでしまう。

栫井:呼吸を合わすことが大切なんです。「良い医者」を問題にするのなら、同じぐらい「良い患者」を問題にしてもいいと思うんです。

坂西:求めよ、さらば与えられん。叩けよ、さらば開かれん。これは医者と患者に共通して言える事ではないかと。しかし求める・許容する・尽くす容量は前者に多い程、医療は広がります。抽象的のようで、大変simpleな原則と思っております。良い医者の定義は簡単ですが、良い患者の定義は必要ないというのが自論です。

栫井:基本的にいいたかったのは、「相互性」ということで、先生のいう「医者と患者に共通して言える事」と同じです。お互いに自分のやるべきことをやる、医者は医者の立場で医療に工夫を尽くすべきであるということですよね。

今井:「お互いに自分のやるべきことをやる」というのは至言ですね。あるべき本来の姿が言い尽くされていると思います。

○診療についての説明と患者の対応
今井:現場では診療結果に関する説明とそれについてのコンセンサスを得るという作業が必須で、信頼関係構築に大いに影響すると思われますが、その点いかがでしょうか?

外山:選択肢を示して説明すれば、「この医者は自分で決められないのか…」と、頼りなげに見られることもあります。パターナリズムって批判されるけど、それを望む、あるいは好む方も、現場の一部には、確かにいらっしゃいます。

川島:「こういう治療もありますけれども、どうしましょうか?」と聞くと、「先生どちらが良いでしょうか。決めて下さい。先生の言われる方にします」と言う患者さんも多いです。田舎なので、まだ、医師の信頼が保たれて、私のことを信頼してくれているのか、それとも、私の説明が悪く、患者さんが決められないのかいつも迷いながら、診療しています。

外山:一度など他院で検査を受けた患者さんが、「あそこは説明してくれない」ととても不満顔。でも、病名は御存知で、そこの医院の手作りの説明書も持っているんです。何が問題かと言いますと「お話しがない」。口で言ってくれない、というわけなんです。

天野:ここの部分がかかりつけ医として重要かなと思っています。連携を深く持っている病院では、私の所の患者さんにはほとんど説明をしない。それでデータを全部患者さんに持たせて「天野医院で説明を聞きなさい。」って・・・私としては時間ばかりかかって辛いところではあるんですが、一所懸命説明する。

栫井:「いやなことは聞きたくない」という患者さんも多いですね。その場合、治療者は「抱え続ける」という役割をはたすことで患者さんの不安感を減少してあげられるように工夫しますが、正直なところ何も考えずにそのまま情報公開したほうが楽です。私のところのような小さな診療所でも悪性腫瘍のかたが何人かおり、家族と打ち合せながら本人が落ち込まないように配慮します。

今井:どんな患者さんに、どこまで情報を開示すべきか。全ての患者さんに、全ての情報を開示することが本当に患者さんのためになるのか・・・難しいですね。情報開示につきましては、また別項で触れられると思います。

○これからの医者に求められるスタンス
今井:医者のあるべき姿勢について「自分の身内を診るようなつもりで」というような言い方をされますよね。現場で患者さんに対する心構えとしては一理あると思うんですが、一部には「自分の家族や親戚に対する検査や治療は無駄を省いた最も理想に近い医療だ」と仰る方もいらっしゃるようですが・・・。

外山:これからの権利意識の強い時代の「よい医療」を考えるときに、「自分の家族や親戚に対する検査や治療」などという内なる「倫理」的規範のみに頼るのは危険であり、アカウンタビリティーも含めた結果への責任という外からの客観的評価に耐えうる規範を、プロとして追求して行くべきではないでしょうか。

諸橋:すでにそうなっていると思います。またそれをさらに進めて行かなきゃならないわけだと思います。医療費の総枠抑制という大きなかせをはめられながら・・・きついですね。

外山:「一生懸命やった」というだけで許される時代じゃないですよね。

諸橋:一生懸命も要求のひとつにすぎないということですね。

今井:そのようなプロとしての姿勢も患者さんの評価の対象として認識していただけるよう、お互いの関係を模索し続けなくてはならないと思います。


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座談会「情報開示について
○カルテ開示について
外山:情報開示・カルテ開示の問題は、「患者の自己決定権」やプライバシーの新しい考え方である「個人情報の自己コントロール権」などを根拠にしており、確かになるほどとは思います。しかし、どうも理屈・理論ばかりが先行し、現場の多様性や複雑性に目が向けられていないと感じます。現場での「お任せ」意識はまだまだ根強いようですが、如何でしょう。

諸橋:私のところは読み書きが出来ない患者さんもままいらっしゃいます。意思確認とありますが、インフルエンザ予防接種の問診票を書いて頂くにもスタッフが付ききりでサポートするなど、高齢者に理解を求めるのはとても大変です。残念ながらカルテ開示どころか、「任せるから」という言葉が多いですね。

外山:あるべき姿とされているものと現場の間には、明らかに大きなギャップがあります。そんな医療現場の構造・努力を知ってか知らずか「全部見せない情報開示なんて手ぬるい、けしからん」と言われても、何か釈然としないものを感じます。

天野:カルテ開示を求める声はいわゆる人権派の弁護士と、それに影響を受けた方が中心です。それらの声と一般の人々との声とは異なる部分がありますが、医療不信を口にする人間の方がどうしても声は大きくなりがちです。世間はマスコミを含め、声の大きい方に影響を受けます。不信を取り除く為には、私は情報開示しかないと思っています。

外山:全く同感です。しかし現状では情報開示(共有)といっても、「そんなのは面倒くさい」と言う患者さんに、実は医師の側から「自分のことなんだから、良く聞いて下さい、良く読んで下さい」と手取り足取り、アプローチすることの方がずっと多いように思います。

川島:自院のカルテとは別に患者さん用のカルテを書いて渡している小児科の開業医の記事を読んだことがあります。私のカルテはメモ書きのようで恥ずかしくて、とても患者さんに渡せるような代物ではありません。そこで昨年、カルテ開示の問題が出た時、「自分専用のカルテ(ノート形式)を作ってみませんか」と、パンフレットを作って患者さんに呼び掛けてみました。残念ながら結果は希望者無しで、ちょっとガッカリです。マスコミで報道されていることとの間にギャップを感じます。

外山:実は当院でも、そのようなノートを作ってみないかと、患者さんに持ちかけてみたことがあるのですが、全く興味を示して貰えず、気力が萎えました。情けない話ですが、医者だってガッカリするんですよね。実際の現場の情報開示(共有)って、医者が「ふられる」ことの方がまだまだ、多いように思います。

天野:でも、それを我慢してやっていかないと、患者さんの意識は向上しないと思います。私の場合、当初は複写式カルテ用紙を作成していました。受診1回毎に診察終了時に写しを渡します。綴じ込む為のファイルも渡しています。当時、カルテ記載の労力は大変でしたが、今はダイナミクスという電子カルテを使い、毎回の記録をA5用紙にプリントして患者さんに渡しています。最初に渡すファイルの説明書きには、カルテには書き間違いも、記載が不備なことも、後から書き加える場合もあり、また、御自分で読んで間違いだと思う点があったら必ず教えて下さい、と明記しており、実際にそのような指摘を受けることもあります。カルテの写しはあくまでも写しである事を伝えています。それでも現実に「カルテの写しなんていらないから、もっと早く診察しろ」なんて苦情が寄せられることもあります。

外山:このように情報共有についてノリの悪い現場では、不謹慎な言い方ですが「汚いメモ書きを卒業して開示に耐えるようカルテを綺麗に記載するなんて、実際の治療には関係無い。そんな時間があったら、患者さんに丁寧に良く説明をするとか、患者さんの待ち時間を減らした方が良い」ということにもなり兼ねません。実際、患者さんの中には文書を渡されても説明されたと思わず、口頭こそが説明だと思っている方も居られます。

天野:一所懸命に説明し、患者さんにも喋りたいだけ喋って貰うと、それなりに時間が掛かってしまいますが、それは短縮することはできません。

外山:優先度の問題が確かにあると思います。限られた時間の中で何を優先させるか。現状において極論すれば、1)3時間待ちの3分診療、2)3時間待ちの1分診療+2分カルテ書き、3)5時間待ちの3分診療+2分カルテ書き、さあ、どれを選びますか、ということになり兼ねません。

天野:自分が必要とするカルテと、自分の身を守る為のカルテは、少し違うように思います。実際、カルテをキチンと記載することで未然にトラブルを防げる場合もあります。また、我ながら本当に悔しいケースで、ミスを知った患者や家族から、逆に「人間、誰しも失敗はあるよ」って慰められたこともあります。危険も大きいが、メリットも大きい。「患者を基本的に信頼するよ」という意思表示になっていて、その結果、患者も「天野を信頼するよ」という相互信頼の元になっていると思います。

安藤:私の場合、パソコンは患者さんのデータ整理に使っています。手早く患者さんの全体像を把握して、出来るだけ見落としをせずに良い対処が出来るか、それを考える為のツールです。攻撃は最大の防御なりと言いますが、身を守るためのカルテ記載、というよりも、貴方の為にこういうカルテの使い方をしてますよ、その内容はこうですよ、といつもお見せしておくことが、「あれ、これってちと、違うんじゃない?」という患者さんの疑問を小さい芽のうちに摘み、後々の大きなトラブル発生を防ぐことに繋がる気もします。因みに私は殆ど日本語で書きますので、患者さんの眼の前の画面に表示されるカルテの内容は全て患者さんにも判ります。

外山:情報開示(共有)に積極的な先生、モダンな先生からは、このようなご意見を比較的よく伺います。ところが伝え聞く古典的な価値観では、「揚げ足を取られるから余計なことは書くな」、「証拠が残って書けば書くだけ不利になる」というものがあると思います。なんだかこれだけはっきりと、「患者なんて何するか判らないから信用できない」という気持ちで診療をしていたら、仕事が全然楽しくないんじゃないか、という気もしますが、どうなんでしょう?

小島:「裁判になったら?」という状況設定については不透明ですよね。私は診療契約書に「画像、音声を録ることがあります」と明記しています。「手術の図や絵を残してはいけない」は整形外科名誉教授で、私の専門分野の恩師でもある先生がアメリカで叩き込まれた訴訟対策だったと思います。よっぽど悪意の第三者か常識のない人でもなければ、結果良ければすべて良し、でしょうが、医師が患者を選べないのは不公平ですよね。患者が喜んで呉れるから、必要として呉れているから、かろうじて医業を継続しているのであって、経済性がインセンティブではありません。

天野:そうなんです。患者さんが良い思いができるようになると、医者は楽しいんです。

外山:現場の多くの医者は自らのカルテが不完全であると認識しているし、開示するなら、もう少し読みやすく整理したものを、と前向きに考えていると思います。しかし、限られた時間の優先順位の中で記載に割く時間は多くは取れない上、患者さんの情報提供や自己決定についてのニーズも乏しいのが現実です。そこの苦悩、現場の複雑さに対するデリカシー無しに、一方的にカルテ開示と言われることに対する不合理感は、確かにあるように思います。重箱の隅を突つかれるのではと医者側が疑心暗鬼になるのも、無理からぬことだと思います。どんな職業、記者などの個人情報を扱う職種の方であろうと、自分のメモをすべて相手にコピーして渡せなんて言われたら尻込みするでしょうし、自分がその立場に立たされるといい気はしないでしょう。
 「自己決定権」や「個人情報の自己コントロール権」は基本的人権の進化だそうですが、OSが大きなバージョンアップすればハード側にも高い機能が求められるのと同様、建前論でこれらを前提にしたシステム構築を叫ぶ前に、もっと根本の土台の整備が必要なのではないでしょうか。現場の私達とパートナーシップを組み、この過渡期の現実的な議論を進めて下さる市民やメディアの方が現れることを強く願う次第です。「患者が喜んでくれるから、必要として呉れているから、かろうじて医業を継続している」、「患者さんが良い思いができるようになると医者は楽しいんです」。こういう言葉をお互いに良く噛み締めたいものです。

○「セカンド・オピニオン」について
外山:これも、本来の主旨と、世間での受け取られ方、即ち、末端での現状とがずれている部分があるように感じられます。「ファースト・オピニオン」があるから「セカンド」なんだろうが!と、思わず心の中で叫んでしまうことすらあります。医者の出した結論、勧める治療法が気に入らないと、それに至る説明もロクに聞かず、転々と受診して回るのをセカンド・オピニオンだと思っている患者さんも、少なからず居られるように思います。

本田(忠):「自己責任の原則で、自分の症状に関し他の医師の意見を聞くこと」がセカンド・オピニオンなら、フリーアクセスを確保すれば良いだけでしょう。わざわざ制度化する意味がどこにあるのか良く判りません。ゲートキーパーがいて、フリーアクセス制限している制度なら確かに意味があるでしょうけど。

外山:制度化という流れ、そしてその是非という論点もあると思いますが、ここでは主として概念や内容について意見交換したいと思います。少し整理してみました。

1)「ファースト・オピニオン」の理解:A)結論のみ(例えば入院が必要。手術を勧める)、B)結論と、それに至る筋道を理解、C)結論とそれに至る筋道、更に各検査結果の意味するところの概略を理解。
2)資料・データの提供:a)無し、b)文字ベースのコメント、記載のみ(血液検査の結果票や画像の読影所見、病理コメントなど)、c)原画像つき(フイルム、スライド等)、d)原画像+診療情報提供書もしくはカルテのコピー付き、
3)セカンド・オピニオンを得る場所:α)自分で探す、β)「ファースト・オピニオン」の医療機関からの紹介。

 本来のセカンド・オピニオンは、C(B)−d(c)−α の組み合わせということで宜しいでしょうか。A−a−α だと単なる重複受診、或いは所謂、ドクター・ショッピングとも取れると思われます。1)がある程度のレベルにないと、セカンド・オピニオン自体が成立しないと思いますし、2)がbどまりだと検査の信頼度等、セカンド・オピニオンの前提条件について不安が残るように思います。3)がβの場合、意図しないものであれ、方針についてのバイアスが掛かる可能性は否めないと思います。

今井:当院には結構、セカンド・オピニオンらしきものを求めて患者さんが来られるんですが、殆どがA−a−αのパターンです。前医でそこそこ検査を終えてキチンと説明も聞き、そんなに納得できない説明では無かったが専門医の意見を聞きたい。そのような場合でも大抵は手ぶらで来られるんですね。それだと初めから当院で検査し直しになってしまいます。勿論、必要に応じて再検査しますが、全部のやり直しは無駄ですよね。私の希望としては「正直に先方の先生にその旨お話をなさって、コピーでもいいから検査データの情報をもらって来て下さい、そうするとある程度その場でコメントが出来ますよ」と。要するに、日本ではまだ言葉だけが一人歩きしているように思います。医者側もマスコミも、望ましいセカンド・オピニオンの在り方をもっと訴えて行かなくてはいけないのではないかと思います。
 ただし、私の専門外の疾患のことですが、患者さんの家族や知人のことで相談を受け、お勧めしたとおりに現主治医の紹介状と検査情報を携えて然るべき医療機関でセカンド・オピニオンを得ることが出来、治療が望ましい方向に進んで感謝されたことはあります。

栫井:こんな例がありました。胃の検診で胃癌の疑いをもたれた受診者が、近くのA医療機関で胃内視鏡検査を受けました。A医療機関からの返信及び添付された写真に、疑問な点があると、検診機関の複数の医師の判断が一致したので、セカンド・オピニオンを求めるよう指示し、受診者はB医療機関を受診しました。

坂西:私が経験した例を挙げます。眩暈を訴えて来られた高血圧・高中性脂肪血症の患者さん。右頸部に血管雑音を聴取し、血管エコーで、左内頚動脈閉塞と右内頚動脈の狭窄あり。依頼したMRAでは、右は同様の所見でしたが、左は椎骨動脈も閉塞との報告でした。ここで、メーリングリスト仲間の神経内科専門医に画像を持参してコンサルトしました。結論は、左椎骨動脈の代償性拡張。エコーでそれを再確認後、MRAを読影した放射線科医に相談。他の画像も含め再度検討した結果は、左椎骨動脈の代償性拡張でした。セカンド・オピニオンを得、ファースト・オピニオンへ還元した結果、2人の他科専門医を介して、重要な結論を得ました。患者さん・ご家族も安心されました。

川島:こんな例はどうでしょう。耳鼻科で、アデノイド・扁桃腺の手術。昔は、余り抗生物質など無かったので、多少大きかったり・発熱を繰り返すようなら、みんな取っていました。最近は、いびき・反復性(滲出性)中耳炎などで適応になることが多くなって、手術適応の考え方が変わってきています。ある程度は、薬で取りあえず抑えられるのと、局所麻酔から全身麻酔に変わり親御さんにとってもなかなか手術に踏み切れない現状があります。B(A)−a−αでも相談に見える方がいらっしゃいます。この辺の判断は、患者さんの病気の経過で殆ど決まりますが、あと、担当医師の経験などにも左右されます。診察する先生によって多少ずれがでます。そこで、お母さんも迷うことになる。こういう症例では、いきなり来られてもこちらも判断できない。誰が見ても明らかな(素人目にも納得しやすい)手術適応があれば別ですが、そうでなければ暫く通院して貰いながら経過を見ることになります。時間も医療費も無駄になります。こういう、医師にとっても判断をしずらいケースってありますよね。本来のセカンド・オピニオンとは違うかもしれませんが、我々開業医では結構、遭遇するような気がします。

外山:医療における意志決定の全てが、典型的なセカンド・オピニオンに馴染む訳ではないということですね。

川島:何でもかんでも「セカンド・オピニオン」を持ち出すのが良い、という訳ではないと思います。

外山:これまでのお話を伺いながら、もうひとつ、分類を入れても良かったかなと思いました。即ち、
4)セカンド・オピニオンを求めたキッカケ:壱)自分の意志で、弐)周りに勧められて、参)ファースト・オピニオンの医師に勧められて、四)第三者的立場の医師に勧められて。

 まだ言葉だけが一人歩きしている実態があり、又、医療における意思決定の全てがセカンド・オピニオンに馴染む訳ではないとなると、壱や弐ではなかなか正しい、もしくは有効なセカンド・オピニオンにはなりえず、参は現状ではなかなか無い上に、そもそもセカンド・オピニオンに馴染まないケースでは勧められることもないでしょうから、やはり、四の第三者的立場の医師、具体的には「かかりつけ医」の機能が、俄然、クローズアップされるのでしょうか。有効なセカンド・オピニオンの為のナビゲーターの役回りも、「かかりつけ医」は担うことができるということですね。どうやら「かかりつけ医」のあり方の問題とも絡んでくるようです。

小島:かかりつけの医師なりに「誰に診て貰ったら良いですか」と聞けばバイアスが掛かる。電子カルテがその解決にならないでしょうか。要は医療の透明性の問題ですから、カルテをWebに載せてしまい、世界中から批判や助言を仰げば良い。権限のある人には自由に閲覧できるようにする。そして例えば一定期間批判がなければ、その診療内容は世界的に認知されたと看做すというルールにする。思い込みによる誤診などがあった場合に指摘して貰えるのは医師・患者双方の利益ですし、医師の生涯学習にもなります。患者の求めがあれば、1)医師は診察所見などのカルテや画像を、患者名を匿名にしてWeb Siteに載せる、2)専門医にこのWeb Siteを閲覧する権限やPasswordを与えて、意見があれば文責付きでWebに追加記載して貰う。ここで大論争が始まるかもしれませんけどね。で、どうでしょうか。医療の効率性、適正性をセコムやオリックスのような専門知識のない門外漢の干渉や、厚生労働省などの無責任不適切な監督、無見識なマスコミから隔離し、医師の権利(義務もですけど)を担保する手段に出来ないでしょうか。これは実力のない医師には厳しい世界かもしれませんが、医師の裁量権が世界的規模で狭められ、医療が市場原理にねじ曲げられ、医療が荒廃して行くことに対抗するひとつの方策にならないでしょうか。

本田(忠):小島先生のご意見は刺激的です。どうも電子カルテという言葉が悪いという意見が前からあります。電子カルテではなく医療総合情報システムなのです。出発点として、院内業務の合理化を考える。どう院内の動線を短くするか、自分の業務を無駄なく、合理的に処理するか、そのためにシステムを組んでいったら、それが結果的にオーダエントリーシステムであり、診療録の電子化である。しかしそれだけではまだ不充分である。医療は一人では出来ない訳で、データの重複を考えれば、どうしても地域の連携の問題が出てくる。その結果が地域のネットワーク化であり、2次医療圏の一患者一カルテである。合理性を追求していけば、地域のネットワークまで到達して、初めて理想?のカルテになる。飽くまでネットワークの流れの中で考える訳です。

外山:「セカンド・オピニオン」が有効に作動する為の条件について、現場の実例からの議論を行い、とても興味深いものになったと思います。特に現状では、ナビゲーター役としての「かかりつけ医」の存在も大きくクローズアップされてくることになるようです。
 最後の小島先生の発案は、未来へのアイディアとして、かなり示唆深いものに思えました。実際、本田先生ご指摘のように、電子化ネットワーク化によりカルテの概念やあり方が変われば、セカンド・オピニオンの有り様も当然、変わってくると思われます。



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座談会「医療の無駄」
川島:最近、構造改革の名のもとに、医療費の削減が叫ばれています。そのなかのひとつに「医療費の無駄」を省くことが言われています。では、その「医療費の無駄」というのは、何なのでしょうか?日常の診療で感じておられること何でも結構です。ご意見お願いいたします。

外山:私は、「無駄」の問題は、「イメージ」が先行していて、実体、というか、定義が非常に曖昧なまま、使われているように思います。今までの議論は、どちらかといえば、一方の立場が「無駄」と決めつけるようなものが多くて、複数の立場からの、「本当にそれは無駄なのか」という検証は少なかったように思います。そもそも、誰もがうなずける無駄って、どれだけあるのでしょう?まず、医者が過剰と判断する検査、一部の休日診療所、急がない疾患での時間外受診など、「医者は無駄と思うが、患者は「安心」とか思っているもの」があるかと思いますが。

今井:ここはマスコミなども割と避けて通っている部分ですが、意外と大きいのではないかと思っております。具体的には、
○例えば腫瘍マーカー、肝炎ウィルス抗体価など、何の症状もないのにそれを希望されることがあります。もし拒否して問題を見逃した場合を考えると現状では応じざるを得ません。
○ある医療機関でおこなった検査の内容に満足できず、時期を接して他の医療機関で再検査を希望される場合など、先方の検査結果が入手できれば、不足した項目だけ検査できますが、だめな場合には全て再検査せざるを得ません。
○勤務先の検診を自分の都合で受けなかった場合、心配なので、といって希望してくることがあります。
○患者さん側の「都合」による時間外診療や休日診療については、やむをえない場合もあるのでしょうが、空いているから、というような確信犯的な方もいますよね。
結局このような医療費の無駄遣いについては、医療機関側が配慮するのと同じくらい患者さん側にも知ってもらい、協力して貰うしかないのでしょう。

外山:今井先生のご意見に同感です。でも?、患者さん心理として「無駄」と認めてくれるでしょうか? 無症状の場合、言い換えれば安心感を得るための検査に対しては、医療保険は適応になりませんって。これでコンセンサスが得られるようには思えないのですが。次に、他種類の処方や検査、診療・薬剤情報提供書など、「患者は無駄と思うが、医者は「必要」と思っているもの」もあると思いますが。

今井:他種類の処方や検査については、本当に必要なものであるなら、一部の方を除いて納得してもらうことが可能なのではないかと思います。診療情報提供については、相手医療機関がありますから、コンセンサスが得られることが多いように思いますが・・・。薬剤情報提供についてはどうなんでしょう。確かにずっと同じ薬をのんでいるのに毎月同じ内容の情報提供、となると無駄だと思うものなのでしょうか。

外山:処方や検査については、逆にこれは、医者としては、多いから「無駄」と言われるのは心外ですよね。次に、転院時の転院先での再検査など「無駄と意味づけるかどうか、議論が必要なもの」もあると思いますが。

今井:自分の勤務医時代の経験からしますと、決して前医の検査結果を無視するわけではないのですが、例えば超音波検査などは侵襲も少ないし、主治医自らの目で確認、というようなことはしばしばありますよね。そういうところまで「過剰医療」と言われたらどうしようもない。それこそ今度は医療の「質」の維持に関わる問題になってしまいます。
 無駄な検査や治療を省くためには、一次医療機関と基幹病院とが自分たちの位置付けを再認識することが必要でしょうか。一次医療機関での検査の精度が上がってくれば、その検査結果を二次医療機関で有用に活用してもらって、より診断に辿り着く時間が短縮できるというメリットもあります。

川島:紹介元で癌の診断。そのまま紹介先で手術をしたら、術後の検査で癌ではなかった。これで、訴訟になったケースもあるわけですから、一次医療機関である我々開業医での検査精度をあげることも重要ですね。

外山:病診連携・医療情報システムの導入に際しても、これで、検査の重複によるムダを省いて、とよく言われますが、それを主目的とするならば、総額1億円のシステムを導入した場合、単純計算で、ランニングコストも除いて、少なくとも、5000円の検査を2万回減らすことが必要になりますよね。こういう試算、データってあるのでしょうか?ですから、大げさに言えば「魔女狩り」のように「無駄狩り」をしているみたいな風潮には、ちょっと、違和感を感じています。

今井:はい、まさに同感です。医療サイドとしては、本当に必要な情報提供行為を、認められた正当なコストで請求しているだけなんですから。

安藤:”安心”って見方を変えれば”無駄”なんです。銀行だって保険会社だって”安心”を売り物にして膨大な”無駄”をして来たんじゃないでしょうか。彼らが扱っているものはお金だから、大衆にもその”安心”が判りやすく、その”無駄”も納得させ易い。しかし、医療というのは、国民が生きていく上で必須の”安心”を提供しているというのに、ホントに病気で苦しんでいる人達以外には、そう、所詮、他人事。人為的なテロ防止に多大な議論、国費を注ぎ込むならば、病魔というもっと巨大な、しかも絶え間なく続いている天然のテロ防止に更に多くの議論、国費を注ぎ込むべきだろうに、と思うんですけど、如何でしょう。

栫井:国全体で見ると、視点を変えると何が無駄かも変わってくる。最近の我が国の動きでいうと、列島改造論なんてものをぶちあげ、首都移転の話しがつい最近まであり、今でも道路関連予算だけで年間約60兆円といわれています。それに比べると、医療改革で挙がっているものなんかせいぜい数千億円程度。わかりやすくいうと、一億人の国民全員が窓口で医療費を年間千円づつ余計に支払って一千億円です。情報化社会を迎えて時代が大きく動いてきているのに、今までと同じような資本投資構造形態でいいのか、本当の無駄とは何かをもっと真剣に考えるべきです。

諸橋:ミス、汚点を徹底的について壊してしまうところってありますね。そうなると事実でないものが事実のように伝わってしまう。そいでもって大事なところを隠してしまうんですね。間違った権力者も怖いけど、扇動された大衆も怖いですね。医療ってなかなか数字的にあらわすのが難しいですよね。先天性の疾患以外は元の体から見れば最大限治っても100%であってそれ以上にはならないし。 安心料ってどうやって算定するんでしょう?医療のことより、無駄な公共?という名のつく事業。こちらを考えてほしい。

外山:「無駄」かどうかというのは、何が大切か、何を優先するか、という、「価値観の社会的コンセンサス」抜きでは、決められないと思います。医療なんか、今、とりあえず「何らかの必要性」があって、すでに行われている行為に対して、やいのやいの言われているわけですが、公共事業なんかは、雇用創出だの、景気回復だのの名の下に、住民は不足を感じていない、やってくれとはいっていない事業を行っていますよね。これは明らかに、医療より「無駄指数」「無駄ポイント」が高いんじゃないでしょうか。さらに、「無駄」どころか、明らかに「有害」である喫煙に対して、タバコ生産農家の生活や、タバコによる税収の低下を懸念する声が聞かれますが、マスコミからは大した問題視もされていないようです。いくら何でも我々、たとえ内心では思ったとしても、 「医療従事者の生活を守るために」無駄・有害とはわかっているけど、残してくれ、という、主張はしませんよね。どうして、医療だけが、ムダ捜しの魔女狩りにあうのでしょう?

栫井:医療というのは身近な問題ですから、国民に何かをアピールするにはとてもいい材料なんです。例えば、今度の小泉内閣による改革で『痛みを分かちあう』というキャッチフレーズを国民に共有して貰うには、今までより余計に医療費を払って貰い、自分たちも協力しているんだということを実感して貰う。その上、圧力団体の代表と思われている医師会を抑えつけて改革を断行したことになると、内閣の実行力も示せる。

川島:その他のご意見はいかがでしょう。

本田(忠):医療周辺産業の無駄もあります。薬の値段、医療材料の値段、審査の無駄。支払基金や国保連の無駄。役員は、官僚の有力な天下り先で、報酬は多額。未収金の問題。事務経費の合理化の遅れなどですね。また、過剰診療自体も問題にはしないといけません。これもいつもマスコミ報道で、多くは誤解で問題になっているところですから。

外山:過剰かどうかきちんとした検証ぬきで、一方の思いつきや思いこみ、ご都合だけの申し立てがまかり通っているのが、「無駄狩り」っていう状況だと思うんです。

川島:いろいろと、ご批判はあるかと思いますが,回復の見込みのない末期患者の延命治療はどうでしょう。在宅や入院などでしばしば突き当たる問題だと思いますが。

本田(忠):私自身の経験を。デシャンヌ型の筋ジストロフィー症の平均余命は20歳です。呼吸筋麻痺で呼吸不全でなくなる。教科書的には人工呼吸をするのは回復する患者に限られる。悩んだんですが全例人工呼吸器をつけたら2年伸びました。2年でいろんなことができる。終末医療の統計をみますと、国民健康保険中央会の調査では、平成八年十月の高額医療費患者は348人。このうち半年後には147人、42.2%が生存。また、二年後では、112人、32.2%の患者が生存している。高齢化するほど生存率は低くなっており、二年後の生存率は、「70歳以上80歳未満」で20.0%、「80歳以上」では11.8%まで低下している。高額医療でも遺伝子治療はペイしないから自費と果たして患者さんを前にしていえるのか。「お金が無いからハイさようなら」とは主治医としてはなかなか言えないわけで、それを一概に無駄といってよいのか。
 以上述べられたようなことは、社会的入院もそうですが、きちんとcost benefit studyを行うべきである。無駄という言葉が現場においては非常に抽象的な言葉になっている。EBMにのっとった治療方針を立てて、それを基準として、個々の状況に対応する、同時に医師の裁量権を維持することが肝要と思います。また個々の診療行為において、どの部分が無駄なのか(薬の値段、治療材料の値段)。医療原価にのっとり、データをしっかりとる事が大切と思いました。そうでないと医療の無駄は出てこない。医療は公益性が高いわけですから、当然、無駄は省かないといけないと思います。抽象的な医療の無駄論はまずいと思います。

川島:いろいろご意見をありがとうございました。「世の中、無駄が多い」とは言いますが、この「無駄」がかえって潤滑剤の
ような役目を果たしているわけで、この「無駄」がなくなるとかえって世の中が窮屈になってしまいます。これは、医療界でも同じ事ではないかと思います。我々第一線の開業医としましては、「患者さんのためになる無駄は残して、本当の無駄を省いた医療」を目指していくべきかと思います。
 まだまだ言い尽くせないこととは思いますが、紙面の都合もありますので、本田忠先生の指摘された、「医療周辺産業の無駄」は、この後、皆様のご意見をまとめる形で、掲載いたします。座談会は、この辺でお開きにしたいと思います。ありがとうございました。 
○内外価格差について
 内外価格差とは、物の値段に、日本国内と諸外国において価格に差が生じることであります。これは、生活日用品にはじまりブランド品まで、あらゆる商品にいえることでありますが、一般の商品においては、各国により物価が違うことから、ある程度の差が出るのはやむをえません。しかし、「医薬品」「医療材料」において、この「内外価格差」が生じていることは、どのように考えたら良いでしょうか?
 医療は、わが国において残された数少ない統制経済のひとつであります。医療費にかかわる、診察料・検査料・手術料・投薬料など、全てが、全国一律で、法の下に決められております。すなわち、「医薬品」、「医療材料」の価格は、全て国で決められている ということです。また、この消費に対する支払いは、一部の患者負担金を除き、ほとんど全て「保険」で、賄われており、言い換えれば、「公費」で、支払われていることになります。ここが、一般の商品とは、違います。
 まず、「医療材料」について考えてみます。ペースメーカーや人工関節などの医療材料の価格が、外国と比べ、日本国内では高すぎ、これが、「医療費を押し上げる一因である」といわれています。医療経済研究機構が97年に実施した調査では、外国製心臓ペースメーカーの公定価格は日本が122万―185万なのに対して米国の実勢価格は78万円、心臓血管の拡張に使うバルーンカテーテルは日本で25万―32万円と米国の3倍以上となっている。 これらの製品の場合、輸入原価は公定価格の25%程度にすぎず、流通マージンが6割を占める。PTCAバルーンカテーテルや人工肺、眼内レンズなども同じような状況になっている。と報告されています。
 メーカーサイドの主張としては、その要因として、日本では欧米諸国に比べ一医療機関当たりの手術件数が少なく(例えばペースメーカーは、日本の場合は、1病院当たり10例で、アメリカでは、約50症例。PTCAは、アメリカにおいては、1病院当たり700症例で、日本は100症例。)、医師の経験不足を補うためメーカーの技術者がペースメーカーなどを使う手術や術後の定期検診に立ち会う慣行があり、その人件費も価格に含まれている。また、在庫委託販売と呼ばれる、医療機関が使った分だけ請求する慣行もあり、在庫リスクはメーカーが負うようになっている。また、人工関節の手術の場合、非常に多くの器具を必要とする。これを無償で多くの病院に提供し、メンテナンスするには、多くの人件費や保管のための場所代がかかる。また、いろいろな種類を用意するために非常に多くの在庫を抱えなければならない。月1例やるかやらないかという病院が大体50%以上であるような状況では、手術器械を病院に購入してもらうというのはできない。メーカーとしては、これは付帯的サービスという意味でなく製品を使っていただくための義務であると考えている。
 しかし、保険者にしてみれば、手術は病院や医師の責任下で行われるべきことであり、付帯サービスの費用は病院に請求することはできるが、それらが製品価格に含めて保険に直接請求されているのは、納得がいかない ということになります。付属機器とか治療用具などのレンタル代などもあるかと思いますが、股関節などでは出荷国のドイツでは、日本の価格の1/10程度ですから、付帯サービスの費用としては、あまりに高すぎます。では、このような、「付帯サービスの費用」は、誰が、負担すべきものでしょうか?
 もうひとつ、問題点として、「医療材料の価格決定方式」があります。次に述べる「薬剤費」と同じように、類似機能方式により価格が決定されます。ですから、外国製があまりにも高いことから、人工関節の国内品を作った先生がいらっしゃいますが、結局は、類似機能方式により、同じような外国製品の高い価格のまま決められてしまいました。安くするために国内でつくったものが類似ということで外国の高い価格のままとなってしまう、このような厚生労働省の価格決定方式にも、問題があります。それでは、外国製品を個人輸入をしたらどうか? となるわけですが、これも業者や厚生労働省の圧力でなかなか認可されない。「規制緩和」の呼び声だけは高いようですが、こと、医療関係になると、さまざまな外圧があり、一向に進む気配がありません。
 さらに、「内外価格差」とは、ちょっと離れますが、この「医療材料の原価」自体にも問題があります(「内内価格差」)。日本では、「医療材料」というだけで、同じ商品でもすぐ、10倍ぐらいに価格が跳ね上がります。たとえば、整形外科の場合には、町の工具屋さんで買って来たもので使えるモノが多いです。骨折につかう、六角のドライバーが1本25,000円。これを、秋葉原で探したら、ちょっとサイズに問題があるけど十分に使えるものが450円。SurgiatomeのDiamondBar、1本20.000円くらいするが、これも町の工具屋では、5本2.000円くらい。これほど、「原価」と「商品価格」が、かけ離れた商品も珍しいのではないでしょうか。
 薬剤費についても、同じようなことがいえます。薬剤の種類にもよりますが、国内の医療用医薬品の価格が欧米先進国に比ベ2〜3倍も高いということが指摘されています。大阪府保険医協会の「薬価の国際比較検討委員会」の調査(‘94)によると、日本で開発されたメバロチン(‘94推定市場で、1.000億円、以下同じ)の薬価はフランスの約3倍、もしフランス並の薬価に引き下げられれば年間700億も保険財政負担を軽減できることになります。同じ高脂血症のリポバス(400億円)は、フランスの約6倍・イギリスの約4倍です。この差を、日本と海外の商品流通機構の違いだけにおしつけるのは、あまりにもおかしいのではないでしょうか。
 また、薬剤の価格は、新薬が発売された場合、既存の類似薬と薬効を比較して、既存の製品に近い価格に決定する方式が一般的です。ここで、どんな医薬品を基準とするかにより価格が大きく左右されることになります。そして、この方式ですと、画期的な新薬(従来にない製品)でなく、既存の薬剤をマイナーチェンジして高い価格を維持するということが行われるわけです。さらに、この「薬剤費」のなかには、薬の開発費・臨床試験費用なども含まれています。これもかなりの金額になります。これらも、結果的に、「薬剤費」に跳ね返ってくるわけです。これらを、「保険」で、賄うことが、適切でしょうか?少なくとも、新製品が出てきたら、開発費などの回収が終わっているはずの古い製品の価格を大幅に切り下げることも必要ではないでしょうか。
 こうしてみますと、「医薬品」「医療材料」どちらも、同じ問題構造を抱えているわけです。結局は、現在の医療費体系では、「物と技術の料金の分離」が、きちんとできていないことが原因ではないでしょうか。「物は物」「技術は技術」としての、きちんとした評価が得られない限り、この問題の根本的な部分は改善されないように思われます。


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座談会「医者と患者」
栫井:「医者と患者」という題でお話戴きたいと思いますが、みなさま第一線の開業医として活躍されているわけで、臨床でも人生でもどのような状況であっても、そこから夫々が前向きに取り組んでいくことが出発点であって、けっして医療も治療者も患者も完全でなければいけないということではないと思うのです。抽象的な話に流れてもいけないので、少し具体的な話にしようと思いますが、どなたか口火を切って御発言戴けないでしょうか?

安藤:私は医者と教師には先生という呼称を付けますが、どちらも人間社会にとってとっても大事な職業だと思うんです。で、政治屋を先生、先生、と煽てた奴どもが、まず教師のプライドを貶め、そして今度は医者のプライドを・・・。従って、医療を良くするためにはまず教育を良くしなくっちゃ、といつも感じています。

栫井:教師という言葉に対応するのは医者より医師かも知れませんが、どちらも指導とか管理という役割があり、他の仕事とは区別すべきだということですね。御申し出に従って先生方には敬意を表しながら対応させて戴きます。(笑)
 医者と患者、即ち、治療ということでどなたか意見を戴きたいのですが、治療室内の人間関係というのは千差万別で、私のところでは患者さんによく泣かれます。今日も治療室の椅子に座った患者さんが、お互いに何も言わないうちに患者さんの両目から涙が出てきたのです。最初は「よくわかんないけど涙が止まらない」ということでしたが、話している間に現実的なことが出てきて、共感とか支持というような対応をしているうちに、最後はニコニコして帰っていきました。実際の治療に関係することについてはデリケートな問題で話しにくいでしょうが、どなたか何かお話しいただけないでしょうか?

坂西:このテーマでは、コミュニケーションのとり方(あり方)が科を問わず最も大切な要素と考えますが、、当たり前の事というか、私が普段やっている診方(=コミュニケーションのとり方)を書きます。
1)問診:どのように患者さんの訴えを聞き取り分析するか、何を質問すればより正確な診断(問題点)に辿り着けるか、主として聞き手になり、訴えやその背景を対話の中から解釈し、病態・疾患を推定します。その際、救急処置・入院を要するか否かの判断を問診前に決めねばならないケースもあります(ショック、急性腹症、心脳血管疾患、重症呼吸不全など)が、このような場合は走りながら(問診・診察の同時進行)、患者さん・家族・病院とコミュニケーションをとらねばなりません。
2)診察(身体所見=理学所見):どこを診るか。疑われる疾患・病態を想定し、視診・聴診・打診・触診・神経学的所見とり(検査等含む)を行うと共にその所見を患者さんに話しながら、総合所見から(推定)診断します。疾患によっては(小児の喘息・神経疾患等)、所見のポイントを患者さんや家族(親御さん)にも学んで戴きます。この時点で、再度、緊急(処置・入院・精密検査・専門医紹介etc)を要するか否かの判断を行います。
3)検査の選択:自院で治療可能と判断したら、これまでの過程で考えられる診断名(疑診も含め)について話し、検査の必要があれば了解を取り行います。
4)結果説明:結果が1日以上を要する場合を除き、当日説明します。
5)治療の説明:その後の経過を追って行きながら、世間話なども交えながら夫々必要なコミュニケーションを継続します。

栫井:開業医にとっては一見当たり前なようなことを、医師以外の人や研究室に閉じこもっている人に訴えていくことはとても大切だと思います。考えてみると、役所で働いている医系技官はまだ臨床経験が浅い、即ち、「開業」という視点からは最も遠い方が多く、その人達や文系技官によって全ての医療政策を決定している・・・現場を自らの体験として知っている人たちの意見が、実際の行政に反映されていないのではないでしょうか。

安藤:役所の中でも医系技官と文系技官って交流が乏しく、大勢の後者の中で少数派の前者は浮きがちだ、ということも聞きました。従って前者から後者へ医療の現場を伝えたくても聞く耳を持たない・・・。で、私としては前者で頑張る若い後進たちを出来るだけ応援したいなあと思っています。

栫井:さて、折角、臨床医の方々にお集まり戴いたので、もう少し具体的な話、例えば「かかりつけ医」などということで何か御聞かせいただけないでしょうか?

今井:「かかりつけ医」というのは、ある患者さんの主疾患についての外来診療がちゃんと出来て、尚且つ、専門外の疾患に関しても総合的にマネージメントが出来る。つまり、ある患者さんにそのとき必要としている医療を、開業医などの一次医療機関→二次医療機関→専門医療機関という在り方全体の窓口としてマネージメントする役割で、ある患者さんが「私の身体のことはあの先生に相談すれば、一番よいアドバイスをくれる」と考えてくれるような存在が望ましいのだと思います。

澤村:かかりつけ医とは、患者さんのニーズにきめ細かく答えられる医療機関だと思います。その延長線上で、私はかかりつけ医の定義を少し広く解釈して、個人や家族ばかりではなく、地域に対する責任のようなものを感じます。
 周辺には企業のオフィスが多いのですが、地域の文化に貢献しようとするのは商店街などの地元の人達で、地域に対して開業医は間違いなく商店主に近い位置関係にあると思います。地域のニーズに応えることは、そのまま医院の繁栄に繋がるわけですから、かかりつけ医である事を意識した事は余りありません。どだい「かかりつけ」とは患者さんが決める事であって、開業医は患者さんから信頼されてかかりつけと呼ばれるように努力するだけです。

安藤:私の場合、クルマだったらAさん、パソコンだったらBさん、回線関係はCさん、自転車はDさん、当院の経理はEさんというように「相談するならこの人」ってのがある訳で、これが夫々の分野での「かかりつけ医」にあたるのだと思うんです。で、「かかりつけ医」ってのは医師会に聞いて見つかるものでもなく、個人個人が自分の目で、耳で、そして頭で判断して選ぶものであり、自分で選んだ「かかりつけ医」が藪だったら、それは自己責任というものではないでしょうか。
 勿論、専門家ってのは素人にはその持てるものの全てを知る由も無いのですが、しかし、どんな分野の専門家であるにしろ人間であるということは同じ・・・極論かも知れませんが、結局の処、その人の人間性に尽きてしまうのではないか、なんて思いますけど。どのような「かかりつけ医」が欲しいのかということになりますと、それは恐らく地域性によるのではなく、その人の生き方、生き様によるのではないかという気がします。

栫井:今井先生にはかかりつけ医がはたす役割について、澤村先生は結果としてかかりつけ医といわれるように心掛けるというお話、安藤先生には最後は個人の生き様が重要であるという御発言を戴きましたが、これらの説得力のある御意見に続いて具体的なお話しが伺えると開業医以外の方に判り易いのではないかと思うのですが、どなたかいかがでしょうか?

坂西:私は、物心ついた頃から医師を目指しました。大学付属病院の内科(循環器・糖尿病・神経内科・肝胆膵・胃腸)を選び、入局5年後に集中治療部に配属、関連病院勤務を含め内科と共に救急・集中治療を担当する機会に恵まれ、計17年間、様々な疾患を通して、患者さん・家族と触れ合い学ぶ機会を得ました。大学を辞めた契機は、より多くの疾患を自己裁量で診たいからでした。その後、救急告示病院に勤務し、呼吸器・消化器・外科・整形外科専門医等と救急から末期まであらゆる患者さんを診る機会、及び病病診連携にも恵まれ、自己責任で実践しながら多くを学ぶ事が出来ました。5年を経、父の内科診療所、つまり自分の原点に帰って開業。診療所医は自分の専門のみならず、他の診療科目も専門医レベルで診療できる事が必須であり、これまでの経験を土台に最新の知見やEBMを踏まえ、前向きに患者さんを診る事に徹すれば、己ずと、かかりつけ医として認知されるものだと思っています。又、かかりつけ医とは、患者さんが何時でも頼れるアクセスの良い医師でもあります。
 最後に、医療の原点は、患者さんが何を訴え、求めて来られているかを充分な対話の中で的確に把握し、訴えの本質・病歴と理学所見から確定ないし疑診断を行い、流れに沿った診察・検査を行いつつ、場合により他の医師達と連携を取る事だと思います。無床診療所ですから、緊急入院・手術を要する場合や専門外疾患(精神神経科他)、当院で出来ない検査(CT・MRI/A・上部消化管・大腸ファイバー・冠動脈造影etc)などは当該機関に入院や検査を依頼します。検査のみの場合は、こちらに画像と所見を送付願い、当院で治療可能な疾患は対応します。
例を挙げます。
(1)前夜腹痛で眠れなかったという既往歴・飲酒歴のない男性。何らかの原因による急性腹膜炎と診断し救急搬送。結果は急性膵炎で入院。1ヶ月後に軽快退院され、以後当院通院中。この間、3回開放病床回診を行い、病態を把握しました。
(2)高血圧・高脂血症・骨粗鬆症で通院中の女性。休日午前中に構音障害・歩行時フラツキを訴え付き添い来院。構音障害の他、左顔面神経・左上下肢麻痺あり、同乗救急搬送。MRIで既に右中脳に梗塞巣あり、血栓溶解療法を開始。開放病床回診3回。3週後ほぼ麻痺残存せず退院後当院通院中。
(3)気管支喘息+肺気腫の男性。呼吸困難、発熱を訴え酸素吸入下来院。気管支肺炎による気管支喘息急性増悪と診断し、当院で加療し帰宅。幸い、翌日は安静時に酸素も不要になるまで回復。連休中の為、電話で状態を聞き対応。
(4)介護度要3の居宅療養女性。悪性腫瘍術後・高血圧性慢性心不全・完全左脚ブロックあり。医師会介護事業所から訪問看護・介護中。訪問看護婦さんから呼吸困難を訴えられている旨の連絡あり往診。肺水腫あり、携帯ECGで完全房室ブロックの為、同乗救急搬送。処置後肺水腫軽快。以後、病院でチェックしながら投薬とその他の管理は当院で。情報提供は互いに送ります。
(5)病院で、悪性腫瘍術後・高血圧・眩暈・骨粗鬆症の診断で3科併診中。嘔気・嘔吐・食事摂取不可で来院。処置後、経口摂取可能となった段階で、近くの放射線専門医の診療所に検査依頼後投薬量を3分の1に減量。この症例は、病院3科併診と多薬剤に加え病状が改善しない事を理由に、家族の薦めで来院されました。
 上記の例は、かかりつけ医主導の地域完結型医療と、無駄を省く例として挙げてみました。多くの患者さんは、大病院では「何でも出来て安心」という前提で通われますが、長い待ち時間、少ない説明と多い検査・薬剤、主治医が数年で交代する事等に不満を感じた方が、標榜科をみたり、或いは口込みで診療所に来院されます。良質で効率の高い医療を提供する努力と診療所機能の限界を常に見極める事が肝要で、かかりつけ医として信頼され、医療の無駄を省く手立てと考えます。

栫井:大変詳細なご報告、ありがとうございました。治療の流れなども具体的に示して戴きましたが、現場で体で体得したものは頭で理解したものとは違う意義がありますし、「開業医だからできる情報発信」の具体例について例示していただけたと思います。せっかくの機会ですので、もう少しかかりつけ医にたいする皆さんの御意見をいただけないでしょうか?

諸橋:かかりつけ医による医療現場などでの費用削減効果についてですが、かかりつけ医がいれば患者さんの病歴・薬歴やいろいろな検査結果は勿論、生活環境・性格といったものまでも把握できます。それらを病状に照らし合わせながら総合的に判断し効率的な治療を行います。当然そこでは重複や無駄な検査は省かれます。かかりつけ医を持たない初診の患者さんに比べればその費用削減効果はおのずと出てきます。加齢とともにいろんな病気が出てきます。かかりつけ医は病院と違い主治医が簡単に代わるわけでもありません。より良い信頼関係を築いていけば、尚更、削減効果が出てくるものと思います。当地は過疎地ですので、よその医療機関を受診するとなれば、その交通費は馬鹿になりません。また高齢化で送迎や付き添いに応じる為には、家族は少なくとも半日は仕事を休まなければなりません。この不況のご時世、労賃が安い中ではなかなか休んで付き添うことも難しいのが現実です。よそでもかかりつけ医の存在により同じような医療費削減効果が起きていると思っていますが、そんなことを考えるとかかりつけ医が地元に居ることは大きな意味があり、全体からみた費用削減効果はかなりのものだと思います。 ちょっと愚痴っぽくなりますが、かかりつけ医の現状についても触れてみます。私なんかは在宅で寝たきりの患者さんを診ていることもあり、かかりつけ医であればあるほど自分の自由な時間が無くなっていきます。在総診で24時間連携というのがありますが、やはり患者さんは主治医(かかりつけ医)を待ち望んでいまして、こんな人間的な触れ合いがあるところが、遠隔医療、ITがいくら進んでも私などが生き残れる道なんだとも考えます。それがまた喜び、モチベーションにもなるわけですが、毎日休みなしでオンコールというのも辛いですね。医療を数字で捉えられない面だと思います。かかりつけ医が余計なことを考えないで医療に集中できる環境、安心を提供する側も安心して対応できる状況を政府に作って欲しいと思います。またこれは患者さんにとっても大切なことと考えます。

川内:大学の中でも臨床が出来る人はどんどん外に出ていきますし、もっと頑張って開業して立派な「かかりつけ医」になっていく人もいます。個人的意見ですけど、自分の専門は当然ですが、医者として以前に人間として患者さんに親身になれる人・24時間の緊張の持続は出来ないけど、ここぞと言う時に、全力投球出来る人・「優しさ」を分かる人・自分の考えていることを、相手に理解させてあげられるだけの対話の出来る人・この他に「Yes」、「No」をハッキリといえる人というのがかかりつけ医の資質や能力として大事ではないでしょうか。

川島:かかりつけ医・家庭医、どちらにしても耳鼻科医にとっては難しいです。耳鼻科と言えば、「耳・鼻・のど」が一応専門と言うことになります。しかし、耳鼻科の開業医と言っても、実際は、子供と老人がほとんど。実際、耳鼻科でなくても小児科でも構わないという患者さん多いです。いつも風邪をひくと耳鼻科に来る、兄弟がかかっている、こういう人が多いですが、中にはお腹が痛いということでも、小児科に行かず耳鼻科のウチにかかりに来てくれる人もいます。それと患者さんとの相性。これ重要な気がしています。どうしても合わない人もいますが、逆に相性が合うと何でも相談しに来てくれて、「あとここも悪いんだが、何処に行ったらいい」なんて相談もあります。

栫井:かかりつけ医だけでなく、家庭医という言葉も出てきましたので、どなたか用語の説明をしていただけないでしょうか?

外山:「家庭医」という言葉は、かつての厚生省の家庭医「制度」構想を引きずるものとして、一部では、タブーに近いような言葉になっているように思います。しかし、その後「家庭医療学」として発達し、大学関係を中心に、学会や研究会活動が活発に行われるようになっています。
 「かかりつけ医」は、日本医師会(日医)が提唱・推進している言葉で、日医の定義によれば、「医の原点ともいうべき医師と患者の信頼関係を中心に、地域住民にとって心の許せる、何でも気軽に相談したり診てもらったりする身近な開業医に対して、国民サイドに立ってネーミングされた望ましい医師像」とされております。1)患者やその家族との継続的な信頼関係の中で自ずと選ばれた、患者にとっての身近な医師を指すのであり、医師自らが名乗るものではない、2)いつもかかっている医師であれば、その専門が何科であろうと、全ての科の医師が「かかりつけ医」たり得る、とのことで、「1対1」の関係を「制度化」することに対する、強力なアンチテーゼが含まれているように思われます。
 「主として内科というところで話が出るが、各科ともかかりつけ医の機能は100%か20%か判らないが持っている。医師もそのあたりの自覚が必要である。1人の患者が何人かかりつけ医をもっていても良い。しかし、この考え方は、厚生(労働)省の審議会などでは判って貰えない。質の担保などが問題にされる。」このような解説も聞いたことがあります。
 「プライマリ・ケア」については、1976年に米医学アカデミーが、Accessibility(近接性)、Comprehensiveness(包括性)、Coordination(協調性)、Continuity(継続性)、Accountability(責任性)を、プライマリ・ケアの持つべき特性として挙げており、有名になっています。日本では、2001年に名大の伴教授が著書「21世紀プライマリ・ケア序説」において「プライマリ・ケア専門医とは、ヘルスケア・システムの第一線にいて、患者のあらゆる健康問題の窓口となる"総合する専門医"である。疾患のいかん、個人的、社会的背景のいかんにかかわらず、患者の自律性を尊重しながら、患者にとって最善となるように、日常の健康問題の大半を責任をもって取り扱うことができるような幅広い臨床能力を求められる。そのためには、生物医学、行動医学、医療社会学、医療経済学、決断科学などの広い、学際的な知見の援用が必要である。その活動はさまざまな社会資源を活用しながら、予防、診断、治療、ケア、症状緩和、リハビリテーションなどにわたり、継続的で、家族や地域を視野に入れたものである。」と定義しています。
 「総合診療」という言葉も、これらの関連の中で用いられることがありますが、これは主として、病院での機能を指すように思います。
 私見としては、末端現場の視点で「かかりつけ医」「家庭医」「プライマリ・ケア医」の「機能」を1つのスタイルやモデルで定義することは困難なように思います。都会(人口密集地)のかかりつけ医と地方(過疎地)のそれでは、機能のみならず、お互いに選択可能か否かを含め、医師−患者関係も明らかに異なります。しかし、「都会型」と「地方型」に単純に二分化するのも適切ではないと思われます。 開業医は地域の患者さんと手を携えて地域の医療ニーズに溶け込み、、専門的な高度医療を目指す病院との間で、フレキシブルに隙間を満たす存在になっていると考えます。それゆえ、かかりつけ医の組織化により、専門家集団として地域医療全体の向上に寄与できる一方で、地域の実情から要求される医療と、自身の理念や診療技術・範囲との間に葛藤が生じることも少なくありませんが、別の言い方をすれば、地域の医療環境や医療資源と、自分達の提供する医療との継続的なすりあわせ作業のダイナミズムこそに、かかりつけ医としての醍醐味の一部があるのかもしれません。

栫井:「かかりつけ医」と「家庭医」というちょっとデリケートな難しい問題を解説して戴き有難うございました。この二つをここまで区別しないできましたので、厳密には発言によっては言葉の使い方に問題があったかもしれませんが、お目こぼし戴くということで御了解戴きたいと思います。他に御意見のある方いらっしゃいませんか?

松本:皆さん、医師から見たかかりつけ医ですよね。患者さんサイドからのかかりつけ医は考えたことがありますか?私は一度も診察をしたことのない健康な人から「あんたが私のかかりつけ医」と宣言されたこともあります。言葉が先行していて勝手に思い込まれている場合もあります。逆にこの患者さんはきっと私がかかりつけなのだろうなと考えていたら「はずれっ!」というのもあってやはり判らないのです。お互いに医療を介しての信頼関係が築けることが肝要であって、かかりつけ医の機能やスキルは相対的なもので絶対的なものではないような気がするのです。

天野:天野:医療機関が多い所では自分の思ったようにやっていけますし、あまり患者さんに合わせて診察していると患者が増えすぎて困ってしまう部分もあります。患者さんに選んで貰うが、こちらも結果的に患者さんを選んでしまう。この辺りは地域性が大きいでしょうね。

栫井:「患者さんが増えすぎて困ってしまう」というのは、医療現場を知らない方には理解しづらいでしょが、これは経営学の組織論の中にもありまして、組織というものにはもっとも経営効率のよい規模というのがあって、やり方にもよりますが、現在の日本の一般的な医療はむしろ家内工業に近い水準に採算点がある、つまり事業規模を拡大しても収益性は悪化することが多いということですね。判り易く言うと、患者さんが沢山来るからといって、一般の診療所が人を雇い施設を大きくしても経営的にみるとマイナスだということ、言い換えると、一般の医療は沢山患者さんが来ても利益が見込める時代ではないということを、医療経営者の方は骨身に染みて感じていらっしゃるということですね。医療の採算性に対する認識が医師の間で強くなれば、つまり今度の医療改革が実施されると、もっと採算的に適切な運営を工夫しないと経営が成り立たなくなりますから、収益重視の医療に走る傾向が強まって、国民が本当に必要とする医療が供給されにくくなりますから、医療現場はますます荒廃するでしょうね。
 ちょっと暗い話になりましたので、気分を変えて楽しい話をしたいと思いますが、開業医としての社会との繋がりのようなものをどなたか話して戴けますか?

澤村:開業医として地域に根ざした社会的活動は大事にしたいと思っています。天野医院の”もりもり寄席”ほどの社会貢献はできないまでも、地域の文化活動に積極的に協力しています。私の医院の周辺には韓国系、中国系住民が多く、留学生を対象とした日本語学校が多数あります。留学生を通訳に雇ったりしてコミュニケーションに努めています。些細ですが留学生に良質な職場を提供する事も、大事な社会活動だと考えていま
す。

栫井:天野医院の”もりもり寄席”というのが出てきましたが、説明して戴けますか?

天野:私の道楽に巻き込んで、地域の人たちと一緒に落語を楽しんでいます。患者さんと一緒の時間と空間を共有しながら、かっこよくいうと患者との距離が縮まるという効用を狙っているということでしょうが、現実は患者さんも遊び仲間にしてしまっています。(笑)

栫井:実は私も天野先生の”もりもり寄席”を一度聞かせて戴いたのですが、患者さんも生き生きとして、とてもユニークで楽しい集まりですね。
 基本的には皆さん治療者として夫々の患者さんを「抱え続ける」という役割を果たしながら、患者さんの不安感を減らしてあげられるように工夫されているのですが、少しでもよい医療ができるように細かいところまで工夫しながら苦労されている様子がよく伝わってきました。
 これで「医者と患者」の座談会を終わらせて戴きますが、本日は大変有意義なお話をたくさん戴き勉強になりました。読者の皆様に先生方の苦労が少しでも伝わってくれると有難いのですが、またの機会はいつになるかはわかりませんが、このメンバーで楽しくお話ができる機会をまたいつか持てるといいですね。長時間に渡り御協力有難うございます。


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