物書き医草稿集 Ver.4-1

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のページです。
平成13年12月17日午後4時更新
  1. 巻頭言 (安藤)
  2. 開業医、はじめは皆、勤務医だった (小島センセ)
  3. 開業医とマスコミ (安藤)
  4. サマリー (栫井センセ)


巻頭言 01/12/17現在 (377字)
●巻頭言
 大学病院勤務医から街の開業医となり、地域医師会の活動に参加してみて、マスコミ報道からは伝わってこない医療の現場の地道な取り組みに驚きました。近年、メーリングリスト(ML)を通じて全国各地の様々な職種・年代の方々と情報・意見交換をしてみると、開業医の実像と虚像とのギャップにモドカシサを感じるのは私だけではない、また、医者だけではないということが判りました。そこで今回、全国各地の40歳台の開業医の方々に呼び掛けて「物書き医」MLを発足、2ヶ月間に1300通を越えるメールをやり取りしながら、1)医者と患者、2)開業医と組織、3)開業医とマスコミ、そして4)医療と政治について、「現場の開業医から皆さんへ」という特集の執筆を試み、その一端をオフミ(off line meeting)で他職種の方々にも問い掛けてみました。その成果を一部ネット上討論として御紹介します。

●執筆及びネット上討論参加者(50音順)
天野教之    天野医院            埼玉県和光市
安藤潔     荒川医院            東京都中央区
石川貴久    いしかわクリニック       茨城県龍ヶ崎市 
今井健介    今井内科クリニック       神奈川県横浜市 
栫井雄一郎  草加永大クリニック       埼玉県草加市 
川内邦雄    川内クリニック         東京都杉並区
川島理     川島医院             群馬県渋川市
小島龍也    たつや整形外科         東京都渋谷区
坂西信映    坂西内科医院          福岡県大牟田市
澤村正之    新宿さくらクリニック       東京都新宿区
外山学     益田診療所           大阪府門真市
本田孝也    本田内科医院          長崎県長崎市
本田忠     本田忠整形外科クリニック   青森県八戸市
牧瀬洋一    牧瀬内科クリニック       鹿児島県曽於郡大崎町
諸橋正仁   下灘診療所            愛媛県伊予郡双海町
松本祐二    松本医院             島根県益田市
森永博史    森永上野胃・腸・肛門科    熊本県熊本市


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開業医、はじめは皆、勤務医だった :01/12/14現在 (6802字)
●初めはみな勤務医だった
 医師は開業して自らのオフィスを持ち、医業を行うことが出来ます。しかし、医師国家試験に合格したばかりの新卒医師では、まだ実際に医療を行う臨床の力や経験がありません。そこで普通は「研修医」として病院に勤務し、新米医師として実地教育を受けますが、将来専門医になって狭い分野を深く診るのか、一般医として浅く幅広く診るのか決断をして、それに応じた教室あるいは医局を選択しなければなりません。出身大学が教育者、研究者を養成することを主な目的として設立されているのか、開業医を養成する目的で設立されているのかによっても違いますが、私の場合は前者でしたので開業は全く頭にありませんでした。後者でもまず何らかの専門(内科、外科、眼科などの)を選び、専門医の卵としての卒後教育を受けるのが普通で、専門分野でシゴカレながら幅は自分で広げる、という具合でした。とりあえず専門医教育を受けておけば、一般医(何でも屋)になら後からでも簡単になれるという、一般医軽視、専門医こそ目指すべき道という雰囲気が濃厚な時代でした。従って現在の中堅開業医の大半は「専門医教育を受けた臨床医で、且つ何らかの専門分野でのかなりの実績を積んだ専門医である」ということになります。
 医学部では全ての科が必修で、卒業時には広く浅く診療するのに基礎となる一応の知識は持っています。しかし新卒医師が或る科に入局すると、他科のことについては医療過誤の問題もあって、他科の医師に任せ自ら考えることは少ないです。たとえば眼科の研修医が婦人科疾患を診て自ら判断することは殆ど無いのです。ひたすら自分の専門分野の研鑽に励むことになります。専門医教育は専門バカを養成する教育でもあります。その専門の中で教授、助教授、講師、助手、、、研修医、あるいは院長、副院長、部長、科長、医長、、、研修医というヒエラルキーが確立しているのです。今でこそ卒業当初から一般医を目指し出来るだけ多くの科を広く研修する道がわずかではあれ開けてきてはいますが、一般医、家庭医など開業医に要求される「一応何でも診ることができる」資質は、専門医養成教育のなかで、個々の医師が自力で養うしかなかったのです。

●専門医が開業する時
 さて、医師が開業を意識する時期は、なぜ医師になったのか、どこで医学教育を受けたか、どのような教室に入ったか、親の家業は何かなどによって異なります。親が開業医で地盤がある場合、開業は覚悟の上であまり違和感がないのかも知れません。しかし開業が全く頭になく専門を究めて助教授、教授になる運命と思いながら研究や教育をしていた専門医が、ある日「開業しよう」と思いたつに至る理由はなにか。私自身の経験をお話してみましょう。

(1)仕事の内容と自らの目的に乖離がある。
 母校の国立大学に在職中は文部教官という立場ですので、臨床、教育、研究、の3つの責務があります。教職ですから研究と教育は当たり前、加えて医師でもありますから臨床もやる。各仕事に8時間を割きますと、1日24時間働くことになります。
 身分的には文学部などの臨床等の仕事がない教官と同等です。勿論、給料、研究費は旧文部省から出ます。しかし医学部の教育では学生、研修医とも手取り足取り、生きている患者さん相手の実習が主体です。研究と臨床は表裏一体です。臨床に生きない研究など意味がない。臨床は省略できません。しかし臨床の場(大学附属病院)は旧厚生省の管轄です。診療報酬は厚生省に入るが、人件費、薬代、材料費などは旧文部省から出るという妙なシステム。文部省は「文部教官の本分は教育と研究にある。診療は義務ではない」、厚生省は「もっと稼げ。さもなければ看護婦などのスタッフを減員しますよ」。これでは「どうすりゃいいのさ」です。私学ではこんな理不尽はありませんが、稼ぎながら研究、教育に忙殺されることは同じ。大学病院でなく一般病院ても研究、教育、臨床の三つは避けられません。多忙きわまりない。これはヒエラルキーの頂上にいても避けられないことですし、臨床医学の特性です。
 大学での仕事は面白いのです。挑戦的な手術、学会での論争、研究や実験、教育、どれもエキサイティングです。そしてそれが自分が医師になった動機と合致していればいいのですが、ヒエラルキーを登ることが目的になってくると、そもそも医師になった動機、「患者さんの苦痛を取り除きたい」、「病気の本態を突き詰めて完治させる方法を開発したい」に乖離が生じてきます。また人間の体力、気力には限界があります。自分のやりたい臨床からかけ離れた業務の多忙さに燃え尽きたとき「開業して臨床と自分のやりたい研究に専念しようか」と私は考えたのです。

(2)自己を通せない
 何年か研鑽を積み専門医となると、倫理や哲学の絡んだ複雑な領域だけに、研究の分野でも臨床の分野でも上司や経営者と意見が対立することがままあります。上司や経営者の方針に真っ向から反対することはヘイチャラなのですが、無駄な圧軋には消耗します。協調性はどこの世界でも必要ですが組織は時に非情です。かといって自分の倫理、哲学に反する指示には辞めても従いたくない。教授、部長など専門臨床分野のヒエラルキーの頂上に立っても、より上位の門外漢の理不尽な指示に従わなければならない場合がしばしばあります。即ち、「教授」でも文部省の一「課長」に過ぎません。ヒエラルキーを登り詰めても多寡が知れているのです。自らの独創性、倫理観、哲学に立った自ら納得のいく医療を自由に展開したいと考えた時、専門医は「零細企業でも一応社長」の独立開業を考えます。

(3)管理業務は私がやりたい仕事ではない
 大学教官や勤務医の道を選んだ場合ヒエラルキーを一段づつ登り始めます。すると経営や組織の運営など本来の臨床医学と乖離した責務が増えてきます。このような管理職業務も組織で働くには重要な仕事ですが、このような業務が好きなら知らず、そうでなければ仕事が苦痛になってきます。

(4)リスクを犯しても自立するか
 勤務医でも、多忙に耐え、自己を殺し、やりたくもない管理職業務を我慢して続けている医師は大勢います。開業して独立することは夢であっても、成功する保証はありません。潰れる医院も少なからずあります。ここでリスクを覚悟で踏み切れるかどうか、その度胸があるか。これは大きなハードルです。

●開業して得るもの

(1)自由(自分で納得できる診療スタイル)
 開業してしまえば院長で(小遣いさんでもありますが)、経済的には報われなくても専制君主になれます。教授に無理難題を押し付けられることは無くなります。教授だったり院長だった人でも開業すれば、文部省や地方自治体など、より上位の指揮系統からの理不尽な無理難題から逃れられます。聞く耳を持たない無責任な巨大官僚組織を相手に、まっとうな医療を実践する報われない努力をする無駄が無くなるのです。あとは保険制度の朝令暮改なルールから外れなければ、医療をどのように実践しようと勝手です。最も良質な医療を提供することが自己実現の方法であるならば、自ら納得できる医療を展開できる自由は開業によって得られる最大の享受です。

(2)患者さんとの人間的つきあい、地域との結びつき
 勤務医の時は近所で誰か急病になろうとも、専門医の私には関係のないことでした。しかし開業してみると、”街中が病棟だ”と感じる日があります。「3丁目のお婆さんが転んで立てない。ちょっと来て診てよ。」と電話があれば自転車に飛び乗って診にいく。ありゃま、内側型の大腿骨頚部骨折だ。人工関節にしなきゃ。この外傷はA病院のB先生がいいだろ、とか瞬時に判断して電話です。
 勤務医時代に開業地域の病院の内情などは熟知していますから、患者が私自身の家族だったらどこに頼むかな?という観点でベストマッチの病院に頼むことが出来ます。医師を個人的にも知っているし、ましてや相手が大学のクラブの先輩や後輩なら相当な無理も通る。患者さんが知らずに不適切な病院を初診、合併症の山、医療費の無駄使いを見掛けますが、心が痛む。私は特に地域医療に貢献したいなどと考えて開業したわけでなかったのですが、こんな仕事は余人を以て代え難いことに開業して始めて気が付きました。

(3)きれいな空気
 勤務医はよほどストレスが多いのでしょうか。私は医局や医師勤務室が嫌いでした。タバコの煙がモウモウとしていた。私の診療所は完全禁煙です。これは純粋に嬉しかった。

(4)学閥を越えた連携
 以前の開業医は学閥の系列とか個人的付き合いのある医師としか交流がなくて、孤軍奮闘だったのでしょう。勤務医でも他院にもっと優れた医師がいると知っていても、自分の患者を自院の信頼できない医師に依頼しないと、どうも人間関係がギクシャックすることもあります。今はInternetを通じて、学閥も時空も乗り越えた意見交換や交流が出来ます。一つの大学や病院がいかに優れていても、すべての分野に優れることはあり得ない。人的資源には限りがあるのです。開業してしまえば学閥のしがらみに因われないで、日本全国、いや世界中からでも、知的、人的資源を調達しても構わない自由があります。

(5)効率、小回り
 小舟のような診療所と大艦巨砲主義の大病院との圧倒的な違いは効率でしょう。診療所は小さいので小回りが利く。私の母校の大学病院では外来棟新装に際し、1患者1カルテ、診療録(カルテ)は画像とともに中央管理となりました。カルテや画像が散逸しないこと、他科での診療内容が分かることは大きな利点ですが、患者が受付に来てからカルテを出すのに2時間掛かる。内科に行ってからついでに整形外科に掛かろうとすれば、カルテは一度カルテ管理室を経由しますから、運が良くても4時間は待たなければならない。循環器内科から「背中が痛いのは整形外科で精査してください」と回されて来て、整形外科で心電図や血液検査を行って、「診断は心筋梗塞です」と内科へお返しすることもある。同じ病院という組織のなかにあっても、組織が巨大すきて機能不全を起こしている。対して診療所であれば院長の自己責任において直ちに改革しても構わない。電子カルテの導入だって1カ月も準備すれば可能です。診療所はフットワークが軽い。

●開業して失う物
 開業して失うものってまあ少しはあるのでしょうね。

(1)社会的地位
 今まで大学病院や大病院のそれなりの地位に居たのに、商店街の親爺さんになるのですから、社会的地位を喪失したと考える人もあるかもしれない。大病院の先生様から、町医者、藪医者の仲間入りですから。都内の多くの大病院が関連病院ですから、いろいろな話は聞こえてくる。大病院の後輩下っ端医師が「町医者なんかに掛かって」とか、患者に言うことがある。
 欧米のシステムをちらと考えてみたら、完成した専門医がPrivateOfficeを持つのですね(一般医の開業は専門性は低いですが)。この場合開業は藪医でなくて一人前の医師の証です。開業医の回診前にはResident達はRegistrarの指導を受けながら必死で下調べ、Presentationで緊張しまくりです。今や日本もその移行期ではないでしょうか。かつて私が所属していた医局でも「開業などとんでもない。落伍者がなるもの。まともな医師なら関連大学の教授になって日本の医療、研究、教育の指導者になるのが当然」という雰囲気が濃厚でしたが、医療改革が言われるほぼ5年ほど前から、指導的な専門医がどんどん開業してしまい、今や関連病院の指導体制も随分、弱体化して来ています。医局人事も様変わり著しい。病院主催の研究会も開業医が研修医などの下位の医師を教育する場なのかと思うこともあるくらいです。これはここ数年の大きな変化です。当分は混乱が続くでしょうが、学識経験のある開業医に臨床教授でも押しつけないと、臨床水準を保てない時代が目前に迫っているように見えます。
 勿論、全ての病院が地盤沈下したのではなく、医師の裁量や専門性を尊重してくれる居心地のいい病院には、まだ臨床能力に優れた勤務医が残っていますが、事務官の権限が不当に高い一部の公的病院などまさに「空洞化」そのものです。「張り子の虎」の社会的地位の喪失を、実質的な喪失と考えるかどうかは、考え方次第ですが、事情を知らない患者さんは大病院の先生様のほうが偉いと思うようです。実は開業する実力のない医師が大病院にしがみついているだけ、ということがままあります。

(2)箱物の権威
 開業すれば、普通は勤務していた頃と較べてはるかに質素な建物や医療機器にならざるを得ません。患者さんは、立派な建物に最新式の医療機器が揃っている病院なら安心と考えるようです。単に近いから通院してくる患者さんもいますが、「こんなアバラ屋に専門医が居たの?」と遠方から通院してくる患者さんもいます。最近の病院事情を知らない患者さんは安心を求めて大病院に掛かることが多いでしょう。しかし治らない。そこで本当の専門医を求めて、市井のわが診療所に辿りつく患者さんもいる。医療レベルは建物や設備で決まるものではない。この単純なことに気がつくまで患者さんが延々と彷徨うこともよく見かけます。

(2)経営責任。庇護はない。
 新規に開業するには、まず5000万円や1億円程度の資金が必要です。大抵は高額な医療機器を揃えるのに四苦八苦、都市部では箱物を借りるだけでも大変です。日進月歩のこの分野、継承ですら医療機器の更新などで借金する場合も多いのではと推測します。銀座に自分のクラブを開店するママさんみたいなものですが、パトロンは普通居ません。勤務医にそんな開業資金があるはずがありませんから、銀行から借金しなければなりません。一方収入は安定しません。休日が多かったり、天候が悪ければ患者さんも受診できません。この場合、収入は減ります。また医師が病に倒れたりすれば、収入はなくなります。
誰も庇護してくれない。しかし職員の給料や借金返済は待ったなしです。幸い黒字であっても、診療報酬は円単位まで捕捉されていますから累進課税に悩むことになります(まあ赤字でないだけ贅沢な悩みというべきか)。日本は資本主義国家ですから、経営は全て個人の責務、市場原理に晒されます。しかし、医療は今どき珍しい社会主義です。一部の例外を除き診療行為に対する対価は国家統制下にあるのです。多くの病院が赤字が当然という、どう考えてもおかしな医療システムの中での厳しい医療経営です。ここで黒字を出すような経営の才能を開発しなければならないのです。また自分自身の退職金や、年金の不足部分を、勤務医時代とさして変わらない可処分所得の中から確保しなければななりません。勤務医と較べて経済的に楽になった実感は全くありません。

(3)臨床、研究の挑戦
 大学病院の臨床、研究そのものは面白い。それを敢て放棄しなければならない。非常勤講師などの身分で挑戦的な手術や研究の指導を継続することは可能ですが、開業医は片手間でできる仕事ではない。毎日くたくたになって帰宅です。従って大学に常勤していたときと比較すれば研究に取り組む時間やエネルギーは減らさざるを得ません。基礎研究に優れた才能のある人材を、適性があるか不明の経営者に仕立て上げることで、基礎研究において日本は大きな損失を出しているのではないだろうかと思います。

●経営
 私の経営スタイルは一般とかけ離れているので、あまり参考にならないかも知れません。普通はできるだけ立派な建物、最新の設備で開業する。しかし私は敢てそうはしませんでした。診断機器など他院のを使えばいい。自分でMRIを備えるなど不合理と考えたからと、借金返済のためにムリな働き方を強いられるのは嫌だと考えたからです。収入は少なくても支出が少なければいい。贅沢をする為に働いているのではない。生活できればいい。その意味では経営はうまくいっています。しかし1日が終わるとくたくたです。時間に余裕を持って自分のスタイルで診療したいのに忙しく働くのは不本意ですが、開業の目的は達成出来ているので、この経営の問題程度は自由を得る為の代償と考えれば納得できます。

●定年
 定年を定めている国もありますが、学識、経験は暦年齢で決まるわけがない。経済誘導(医師の数と医療費の正の相関関係)以外に理由があるとは思えない。暦年齢で定年を定めることは知的資産の損失です。医学の進歩について行けなくなったら、私はその医師は辞めるべきと考えますが、第三者にその医師が時代遅れかどうか決定できるとは思えません。患者さんが来なくなればその医師は定年、と考えれば十分と思います。


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開業医とマスコミ:01/12/12現在(5044字)
「開業医とマスコミ」
 平成12年5月号の特集にはネット上討論、「従来のマスコミとインターネット:開業医の立場から」を報告しましたが、今回も「開業医」がキーワードですので、私達、40歳台の開業医がどのような時にマスコミ(マス・メデチィア)の存在を意識し、どのように考えているのか、について御紹介しようと思います。

○医学・医療に関連する番組や記事を見聞きした時
 よく「人体の不思議」という言葉を耳にしますが、医学を学べば学ぶほど人体の構造の巧みさに驚嘆し、生命誕生以来、何億年もの間の弛まぬ試行錯誤の産物であることを実感します。その一方、この精巧な人体を脅かす病気もまた、驚くほど多種多様であり、既に遺伝子という段階まで踏み込んだ現代の医学ですが、医療の現場ではEBMが流行り言葉にしか聞こえぬ程の未だ混沌とした試行錯誤の中で、患者さんと医師は何とか病魔と戦っています。
 そんな医学・医療の分野ですから、関連する番組や記事を見聞きした時、自分が学び経験してきた範囲のことでしたら、記者の力量も良く判り、報道内容を鵜呑みにすることはありませんが、それ以外の範囲ですと、私達、医師といえども、どこまでその内容が正しいのか、という判断は容易ではありません。そんな時、勤務医の頃ならば院内のその範囲を得意とする医師に確かめることも容易でしたが、個人開業となるとそれが難しい。忙しい毎日に追われてその確認もままなりません。更にこれが医学・医療を支える医療制度の問題になると、近年、医療費削減が声高に叫ばれるようになるまで、私達、医師は「如何に目の前の病魔と闘うか」に専念してきましたので、己はもとより周囲にも詳しい医師は少ないというのが実状でした。しかし、インターネットの普及と共に大きく様変わりしました。今や全国各地の開業医や勤務医の方々と、居ながらにして迅速な情報・意見交換が可能になり、守備範囲外のマスコミ報道に惑わされることもほぼ無くなり、医療制度についても勉強するようになりました。

○患者さんがマスコミに左右されているのを知った時
 国民の健康への関心が高まるのに伴い、医学・医療を扱う報道も増えて来ましたが、そもそもメディアには「犬が人を噛まなきゃ記事にならない」とか「広告料が無ければ成り立たない」とかいう側面もあり、マス・メディア(マスコミ)には取材対象が膨大過ぎてマン・パワーが追い付かず、ごく限られたソースからの情報を消化不良のまま垂れ流すという側面もあるようで、当然、報道の内容は玉石混淆となり、メディア・リテラシーという概念が根付いていない我が国では、惑わされる国民が多くなりがちです。
 この影響は日常診療にも及んでおり、例えば患者さんが薬の副作用ばかりを強調した報道に不安を掻き立てられ、勝手に治療を中断してドクター・ショッピングに流れたり、患者さんの為を思って検査・投薬をしても「医は算術」報道に惑わされて不平・不満をぶつけられたり、これらはお馴染みさんになり信用を得れば解決する問題ではあるものの、実地医療の現場ではいろいろと無用のトラブルを生んでいます。また、一般の方々のマスコミへの盲信でしょうか、そこに流れるオカシナ広告や、登場する医師・評論家の偏った発言に惑わされ、開業医が知らぬような民間療法へ走って持病を悪化させてしまう、ということもまま、見られます。今回、牧瀬先生より、「ジャーナリストや研究者は報告の正確性と大衆への情報のバランスを考慮すべき」(表1)との御意見を頂きましたが、傾聴に値すると考えます。
 
○取材申込みを受けた時
 普通、開業医を取材するのはマスコミではなく、業界紙・業界雑誌などの小さなメディアです。都心の開業医三代目ということで、私もそういうメディアの方から取材を受けましたが、「締め切りが間近で急いでいるので」という言葉に、「それは貴方の都合でしょ」と感じたものの、読者に伝えたいという取材の姿勢にも、また、出来上がった記事にも好感を持ちました。しかし、衆目を集める出来事の記者会見に病院へ取材に行くのとは異なり、メディアが開業医を取材する場合、既にメディア自らが描く構図に当て嵌まるようなコメントが欲しいだけということも多いようで、開業医としては「取材に応じるのは,彼らの間違えた思い込みを少しでも矯正する事ができたらと思うことと,専門家として正しい知識を少しでも世の中に伝えたいからである(澤村先生)」という度量も要るようです。又、「地域医療を守る為には所謂、地元の実力者達に情報の独占・操作をさせぬ為に、力量のある記者に事実を示して取材を要請する(諸橋先生)」ということもあようで、取材を受ける開業医も、常に国民の健康を守るという立場を念頭に置き、客観的な基礎データをキチンとメディアに示しながら、人間関係を密にしてお互いの信頼感を形成して行くことが大切だと思います。

○インターネットで情報・意見の交換をしている時
 既に述べましたように、インターネットは私達、開業医の意識を大きく変えつつあります。医師同士の情報・意見交換から職種・立場を超えた方々との情報・意見交換へ、それを通じて人の輪が広がりつつあります。私も平成10年末から地域・職種を超えて”医療”を語ろうというメーリングリスト、CMINC(参考1)を発足、全国各地の多くの方々と様々な情報・意見交換を続けており、自分自身でもアレコレ調べてみては情報提供をしたり、頂いた情報・御意見の中から、一般の方々にも有用と思われるものをウェブ・サイトに公開したりしています。そして実際に情報を自分で扱ってみると、入手した情報を客観的に分析・観察するとはどういうことなのか、また、その成果の中で、何を、どういう立場で、どのように、どの程度、伝えるべきなのかなど、なかなか難しいことを実感し、こうした疑似メディア体験を通じて、情報を伝えるってナンダロ、マスコミってナンダロ、と改めて考えるようになりました。

○開業医とマスコミ、そしてジャーナリズム
 今回、「ジャーナリズムとは情報の海の中から国民にとって有用なものを取捨選択し、判り易く伝える職業であり、情報を垂れ流して読者を混乱に陥れる一部のマスコミは、その本分を忘れているのではないか。本来、マスコミにも医師にも、クライアント(国民)の利益の為に自ら吟味した情報を職責を掛けて伝える使命がある筈だ(澤村)」という意見がありました。医療とは人命を預かる分野であり、しかもほぼ全ての国民に関わる分野ですので、心ある医師であれば情報の選択や利用、そしてその伝達には非常に慎重で、そのような姿勢は主に卒後の厳しい臨床研修や研究を通じて養われます。
 さて、マスコミと呼ばれる方々の教育・研修はどうなっているのでしょう。医師の卒前・卒後教育のように体系化されているという話は寡聞にして知りません。マスコミから情報として巷に流れるまでに、その内容はどのように吟味されるのでしょう。本田先生が表2に書かれたように、これからはネットのパワーをどう活かすか、が問われる時代だと思われ、一部のマスコミではインターネット経由で視聴者・読者から意見を得ようという姿勢も伺えます。しかし、幾つかの医療系MLを見ている限り、マスコミが医療情報に関して積極的に現場の声を取り入れようという動きはまだ無いようです。
 一方、現場の医師達が医療に関する記事をどのように読み解いているかを直接、国民に広く伝えようという「マスコミウォッチ(参考2)」や、現場の開業医グループから直接、国民の方々へ健康と医療に関する有用な知識と情報を提供する「かかりつけ医通信(参考3)」など、様々な試みがスタートしています。因みに後者では専用MLの仮想委員会で原稿が入念に検討され、必要とあれば疑問点は様々な医療系MLに投げ掛けられます。医療分野の情報は出来るだけ確かな多数の専門的な眼でその内容を吟味するのが当然、という思いからです。
 今後、インターネットは更に普及し、巷には遥かに多くの雑多な医療情報が溢れると予想されます。報道・評論の自由は社会制度的に保護されるが故に、人の命を預かる医師と同様、ジャーナリズムにも高い倫理基準が要求されています。そういう両者が職種を越えたネットワークを構築し、ネットを含むマス・メディア(マスコミ)を通じてより正確でより有用な情報を国民に幅広く提供する、その在り方をもっと前向きに模索する、と試みがあっても良いのではないかと考えます。

参考URL:
1)http://www.cminc.ne.jp/main/index.html
2)http://www.tochigi-med.or.jp/~shioya/m_watch/m_watch.cgi
3)http://homepage1.nifty.com/hone2/kakari/

●表1.(牧瀬先生@鹿児島)
最近、食事・栄養における誤情報の流布が目立ちます。科学的手法により確立されて来た栄養学的な事実と、食事栄養学および科学の誤謬と誤解により形成された誤情報の区別が曖昧で、専門家も非専門家も Faddism(物好き)、Quackery(いんちき療法)、Fraud(詐欺)という概念を正しく認識しておらず、本来の予備的研究の結果を利用して聴衆を煽り、読者・視聴数の増加を目指す風潮が懸念されます。例えばテレビ番組の顔、M氏及びプロモートするスタッフ(A)、或る種の食物の健康上有用性を強調する人達(B)。そして医師や権威と考えられる栄養学関連のゲスト(C)という良く見られる構図ですが、これらは夫々、Fraud、Faddism、Quakceyに相当するものです。従って大学、研究グループ、研究資金を提供する企業は予備的研究の発表には充分な注意をすべきであり、ジャーナリストや研究者は共に報告の正確性と大衆への情報のバランスを考慮せねばなりません。
1)food faddism:健康や疾患に対する栄養の影響を大げさに信じ込み、偏った食事療法の実践を行うことである。
2)Quackery:組織的な事業展開であり、これを促進している者達自身が誤情報の犠牲になって心からその情報を真実と思い込んでしまう傾向がある。
3)health fraud:前2者の特徴を持ち合わせるが、常に利益の面だけ考慮し行うものでり、個人・グループで栄養学的メリットの誤情報を恣意的にばら撒き、誤った主張をしているのである。

●表2.メディアのパワーとネットのパワー(本田先生@青森)
  日本の新聞の発行紙数はアメリカの10分の1であるのに、人口千人あたりの発行部数は4倍、しかもその読者の半数近くが記事のみならず広告さえ信頼しているという調査報告があります。まさに発行部数はパワーであり、1000万部を越す既存の大新聞は確かにガリバーの如き巨人です。一方、雑誌は100万部を越してところは殆どありません。
 しかし、新聞は読まれなくなって来ている。ニュースソースの多様化に伴い、殊に若年世代の活字離れが進行しています。また、現時点ではネットの低コストが、巨大な組織力を背景に横並びの報道で世論を操作してきた大新聞を脅かしています。新聞の宅配が無くなれば購読者数は確実に激減し、広告収入が減れば紙面は確実に変わるでしょう。いずれにしても新聞の形態は変わらざるを得ない。雑誌的にはなって行くのかも知れません。
 一方、ネットにおいては小泉内閣のメールマガジンは、既に500万前後になっており、ネットのパワーは大新聞に迫りつつある。巨大メディアがネットに出現していると言えます。しかも、その読者の多くは、ネットが出来るようなインテリジェンスの持ち主であり、数は兎も角、読者の質は大新聞をおそらく凌駕していると考えられます。
 ネットの特徴は、時間空間関係のない仮想空間での双方向性を持った討論と低コストかと思われます。その中で、今、問われているのは各個人の情報リテラシー、即ち、多様な情報を検証し、批判的に読み解く能力であり、問題意識を持って、自ら行動する、いわゆる、自立した個人がどれだけ増えて行くか、これが今、私達の社会に問われているのです。匿名性に隠れた、ミニコミ特有の無責任な放言は避けなければいけないと思います。質の向上も同時に図る必要がある。ネットでは地域の医療のみならず、さまざまな職種の人々を巻き込んだ健全な地域社会を作る為の大切な基礎作りが始まっています。

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サマリー 01/12/17現在 (2862字)
 時代の大きな岐路にある今、国民の皆さんが旧態依然とした従来の枠組みには限界を感じておられることは小泉内閣の高い支持率からも伺えます。
 その一方、殆どの方が漠然とそれを感じていながら、「それが何か」をうまく表現できずにいるという印象もあり、愚考するに世界は「皆で幸せと楽しさを分かち合える社会」を模索し始めており、そのためには新しい発想や工夫を現実にあわせて的確な判断の元に発揮できるパワーに変えていける地道な継続性が非常に重要ではないでしょうか。
 ここに登場した現役の中堅開業医の方々は、皆さん夫々立場や考え方の違いこそあれ、多忙な日常診療の中で次の時代へ前向きに取り組もうという姿勢では一致しています。そこから何が生まれるかは未知数でも、そこには明らかに「何か」があると感じます。 
 巻頭言を書かれた安藤先生は、情熱を繊細さの中に包み込みながら時代を先取りした数々の試みをされており、今回の特集もそのような流れの中で開業医とそのほかの人々とをつなぐ架け橋の一助としたいというねらいがありますので、行間に安藤先生の持ち味を感じていただけると幸いです。
 「開業医、はじめは皆、勤務医だった」を書かれた小島先生には、歯に衣を着せぬ文章からもわかるように味わい深い先生御自身の破天荒な生き様に対する自負のようなものを感じていただきたいと思います。
 「医療の多様性」については、外山先生に多岐にわたる課題を簡潔にまとめていただきました。
 「医者と患者」のところは、今井先生・外山先生・川島先生にまじめな論文で課題の一部を書いていただきましたが、そのほかの話題は今回の企画の意向を踏まえて「ワイワイガヤガヤ」の座談会形式としてみました。
 「開業医と組織」のところは、それぞれが独立してコンパクトにまとまっており、個別に味わっていただける内容となっております。
 「開業医とマスコミ」については、医療やマスコミに関係する様々な方への安藤先生を中心とする細やかな気遣いと提案が全体に散見される奥の深い文です。
 「医療と政治」については、牧瀬先生と本田孝也先生によるEBMの方法論を取り入れた「受診抑制策による犠牲者の検討」は玄人好みの説得力のある論文に仕上がっており、その他の多くの問題については本田忠先生によってきちっと整理していただきました。
 医療を軸にしたこの特集を御読みになって、皆様が御感じになられることはさまざまでしょうが、これからの医療の在り方として私たちには以下の二つの道があると考えています。
 一つは現在、小泉内閣が進みつつある道、即ち財政支出を減らすことを最大の柱として、市場原理を導入しながら医療費削減するという方法ですが、この場合、透析のようなウマミのある分野に外国や営利企業の投資が集中し、国民が本当に必要とする医療現場には今以上の致命的なダメージが加わって我が国の医療内容は悪いほうに変質すると予測されます。
 もう一つの取り得る道は、国内的にも国際的にも明確な政策を共有した上で医療戦略を展開するという方法です。これは現在採られていない方法で幾つかのやり方が考えられます。例えば、一次医療と高次医療の役割分担を明確にして、公共性の高い医療分野を堅持しつつ高度な医療を更に展開することで国内の医療産業を発展させ、国際的には日本人特有の緻密で繊細さが必要とされる医療分野を強くアピールして行くという方法などがありますが、現在行われているこの種の医療改革はいずれも中途半端であり、実効ある制度を確立するには国民の合意のもとに思い切った政策を展開することが望まれるところです。
 いずれの道を選択するにしても、良質なものを得るにはそれに見合うだけのコストや体制を必要としますが、技術立国であるはずの我が国が結果的にみずから質の低下を求めることは国の存亡にかかわることでもあります。
 国際的には情報化社会、国内的には高齢化社会を迎えた今こそ、必要なコストを必要なところに適切に掛けて今後の国の礎を作ることが非常に重要であると考えます。
 従来の我が国の医療政策は、昭和56年の大幅な薬価削減以来、経済状況や社会情勢などを考慮することなく、バブルの時もそれ以外の時も財務官僚主導のコスト削減のみを全面に打ち出した政策一本槍で推移して来ました。
 考えてみると、資源に乏しい我が国は戦後の或る時期には「技術立国」を掲げて東西冷戦という特殊な世界情勢の中で米国の傘の下にそれなりの成果を挙げて来ましたが、米国中心のグローバルスタンダードが叫ばれている現在、世界は明らかに新局面を迎えています。
 不況が長引く今、原点にもどって国内で優れた技術を再構築しなければこの先国際的に生き残れないことは明らかであり、そのために必要な国としての国民に対する愛情と国家としての信念は緊縮財政を掲げるだけでは達成されるものではなく、二次産業的な製造業中心社会から三次産業的な知的産業への構造転換がなければならず、今こそ確実に新しい時代へのスタートを切ることが大切なのではないでしょうか。
 幸い我が国には明治維新以降積極的に外国の先進技術を取り込み我が物として来た実績があり、最近の医療分野やコンピュ−タ分野を含む下支えする技術者を軽んじる傾向が気にはなりますが、国民の皆様の意識に変化があれば世の中はきっと良い方向へ変わると信じております。
 希望を持って試行錯誤を繰り返せば、たとえ達成されなくとも近づくことはできますが、リーナス・トーバルズが「それがぼくには楽しかったから」(小学館プロダクション)の中で書いているように、「人生はなんであっても、この順序で進んでいくんだ。・・初めは生存に関係していて、それから社会的なものへと移り、最後は純粋な楽しみになる」というような前向きの変化を皆さんと共に目指していきたいものです。
 実際の医療現場に開業医として携わっている私たちといっても、お互いに得意とする分野や地域の状況なども異なりますが、それでも現場を知る者同士として現在進行中の医療制度改革の方向性には全員が強い危機感を抱いており、その辺りを読者の皆様に少しでもお伝え出来れば幸いです。
 もう一度繰り返しますが、国民全体が日本経済は縮小経済への移行だけで再浮上することはないことを明確に認識することが新しい時代へスタートを切るためには必要であり、医療の抜本的改革のためには医療現場を知る人々の意見が政策決定へ反映されることが望ましく、今回の試みは現場の第一線で活躍している先生方からの情報発信ということで従来の情報の伝達方法を変えるかもしれない試みであることを申し添えます。
 最後に、年長者ということで私が締めを書かせて戴きましたが、国中の良い開業医仲間とこのようなネットを通じた特別企画を持てたことは大変幸せなことであり、時代の変化を身にしみて体験させていただきましたが,この特集をお読み頂いた皆様とも何がしかの共感をわかちあえれば尚幸いとするところであります。
 御拝読、ありがとうございました。