嘉おじ with CMINC & KOSIKIOFF forever
2011.8.22
 
 
  • 瀬戸上@甑島です。
    あまりに個人的な思い出ですがお許しください。
    よしおじは手打の漁師でした。78歳、脳梗塞でした。
    手打に見えて、海遊びで世話になった人も居られるかもしれません。
  • 右の写真は平成13年7月28日、甑島は手打ちの浜で野外バーベキュー瀬戸上先生が”甑の海の教授”と呼ぶ”よしおじ”がサバいた取れたての刺身を皆でパクパク。旨いっ〜。(^_^)/~~・・・”よしおじ”レポートはこちら

  •  6月19日、嘉おじが亡くなった。
     まさか嘉おじが亡くなるまで島にいることになるとは思ってもいなかった。

     島に来た時、真っ先に石鯛をぶら下げて挨拶に来てくれたのが嘉おじだった。上半身はだかの体は筋骨隆々、日に焼けて赤鬼のようだった。
     「ソレ、魚をもってきたど」
     そう言うと見事な包丁さばきでさばいてくれた。なんでも若いころ、板前修業をしたこともあると言っていた。

     いつも挨拶代わりに魚をぶら下げてきて、刺身ができると、「オイ、焼酎を一杯飲ませんかオ」と遠慮なく言うのが常だった。しかし、飲みだすと1杯では済まなかった。4杯が定量で、出来上がると饒舌になった。
     「島には、“金持ちより人持ち”ということわざがある。お金は大事だ。だがいざとなったらお金より信頼のできる友人のほうが助けになる」
     何度聞いたことだろう。この“金持ちより人持ち”が嘉おじの口から出るともう出来上がり。あとは水一杯飲ませ、返る時間だよと言うと素直に帰っていた。

     その後も機会あるごとに魚をぶら下げて呑みに見えた。とくにわが妻が妊娠し、出産すると最高級魚“アカセビ”を何度も持ってきてくれた。 
    「この魚はナ、妊婦に食べさせると乳がよく出るんだ」
    そう言って。

    魚捕りにも何回となく連れて行ってもらった。手打診療所の海遊び「遠遊会」でも、嘉おじの船「千代丸」を利用させてもらった。もちろん、嘉おじは「遠遊会」の主役で、ひと潜りで石鯛5,6匹とってくることはざらだった。それに、何でも注文した魚を取ってくるから子供たちは大喜びだった。

    魚とりで忘れられないのはクロの追い込み漁だ。昭和50年代、秋の甑近海にはクロが群れていた。それをそっと近づいて、取り囲むように網を入れ、ひと掬いに捕ってしまう。ひと網で1kg前後のクロを2000〜3000尾捕り、あっという間に満船することもしばしばだった。そして船の上でのお弁当になるのだが、とれたてのクロの味噌汁は嘉おじの自慢で、最高にうまかった。

    嘉おじの言葉で、もう一つ忘れられない言葉がある。漁師の傳三君(50歳)が、海に落とした集魚灯を取りに潜っておぼれて亡くなった時のことだ。診療所の外来でもその話題で持ちきりだった。

    「だいたい前の夜も遅くまで大酒呑んでいたらしい。それがいけなかったんだよ」

    「それよりも集魚灯などわざわざ潜って取りに行くことはない。買えばいいのに」

    などなど、みんなが非難がましいことを言っていた。
    そこへ嘉おじが一言、
    「寿命だったんだよ、寿命」
    この一言でみんなが納得して、黙ってしまった。

    この嘉おじも、何度か倒れたことがある。並外れた体力を持ち、自信がありすぎたのも原因のひとつで、誰も潜れないような深さまで潜って定置網の修理をし、潜水病に倒れ、2度ヘリコプター搬送したことがあった。二度目は、もうだめかと思わるほど重症だった。

    胆石発作で苦しんだこともある。手術が必要と説明すると、何の躊躇いもなく手術させてくれた。嘉おじに似て大きな胆石が詰まっていた。

    そんなこともあって、死んだら医学の発展に役立ててくれと言うのが、よしおじの遺言のような言葉だった。今回も、「俺の心臓は強いから、だれか欲しい人がいたらあげてくれ」というのが最後の言葉だった。しかし、島で臓器移植はできない。
      
  • この嘉おじだが、村の人たちからは“キンタよしお”と呼ばれていた。金太郎のような力持ちだという意味だ。若いころは喧嘩もしたらしく、“キンタよしお”が道を歩いているとみんなは怖がって逃げていたという。その嘉おじが、こともあろうに見えたばかりの診療所の先生と真っ先に友達になったと村の人たちは不思議がっていたらしい。でも、ごつい顔に似ず、嘉おじは優しい心を持っていた。そして何より信じたら裏切らない真っ直ぐな性格がよかった。

    自分の胆石の手術のときも何の迷いもなかったが、娘さんのお産の時もそうだった。娘さんは大阪にいて、狭骨盤で帝王切開が必要と言われると、
    「手術するなら先生がいる。島に帰って来い」と、本当に帰らせた。
    「いや、自分は、産婦人科は専門外だから、どうか頼む、大阪で手術してもらってください」
    と言ったのだが、他人事のように笑っていた。

    そして昭和63年3月9日、陣痛が始まって40時間、さすがのベテラン産婆さんも、“先生助けて”と駆け込んできた。もう躊躇している暇はなかった。帝王切開して元気な産声が聞こえたのは、忘れもしない自分の誕生日と同じ3月9日だった。

    ところで、私は子供のころから相撲が大好きで、誰にも負けたことがないぐらい、自信があった。中学時代も高校時代も、休み時間にはいつも相撲を取っていた。

    島に来て間もないころ、村の八朔相撲で青年の部に参加したことがある。相撲に自信があるといっても医師の体は昔とは比べ物にならないぐらい力は落ちていた。最初の相手は明弘さんだった。おない年の大工さんで、自信がありそうだった。しかし、組んでみてこれは問題ではないと思った。事実、難なく負かした。しかし、明弘さんは、力自慢の大工さんだ。同じ歳の青白い医師に負けたのが悔しかったのだろう、もう一度、もう一度と三度も挑戦してきた。だが三度とも勝った。

    この八朔相撲でもう一人、相撲取りのような兼好君とも対戦した。立派な体で、組んだ瞬間、力の差を感じた。でも、相撲は自分が勝った。兼好君は相撲が下手だったが、それよりも島に見えたばかりの医師を負かすのはよくないと考えたのかもしれない。力を抜いたように思えた。

    だいたい相撲というものは組んだだけで相手の強さがわかるものである。しかし、少々の差があっても相撲は勝負になるところが面白いのだ。

    ところが、一度、よしおじと組んでみたことがある。ぜひ試してみたいと思っていたのだ。すると、組んだ瞬間、自分の体が浮いてしまった。何という体力だろう。まるで岩に取り付いたみたいだった。これまで、たくさんの力自慢とも相撲を取ってみたが、こんな体験は初めてだった。

    思い出は尽きない。

    家内は、いつも出張の時の天気予報は嘉おじに確かめていた。海が時化ると定期船は欠航するからだ。嘉おじの波の予報は間違いなかった。

    ありがとう嘉おじ。
    ご冥福をお祈りします。