NHK BS1スペシャル 「コロナ新時代への提言~変容する人間・社会・倫理~」から抜粋
 
哲学者 國分功一郎

 問を立てることによって、見えて来るものがあるワケですね。イタリアのジョルジョ・アガンベンという哲学者が或る論考を発表したんですけども、そこに書いてあることに対して、所謂、インターネット用語で言う「炎上」が起こったんですね。

・哲学者、ジョルジョ・アガンベン(Giorgio Agamben、1942年4月22日 - )。母国イタリアが強力な都市封鎖に踏み切ったことに対する彼の発言が大きな物議を呼んだ。

 アガンベンは、その当時のイタリアの国立の研究機関が発表していた言葉に基づいて、ですね、「ウイルスに感染しても集中治療を受けなければならないのはそのわずか4%に過ぎないんだ、というふうに国立の研究機関が言っている」と。「それなのに何故、非常事態の措置を取るんだ」っていうことを、あの強く非難する口調で書いたんですね。「コロナウイルスっていうのは、インフルエンザとは違うんだ。ワクチンがないんだ。君はそのことが分かってないじゃないか」っていう批判がありました。
 
批判を受け、アガンベンは補足説明と題する文章を発表。國分がそこに書かれたある問いに注目する。

 アガンベンが言いたいことってのは非常に明快でして、二つなんですよね。一つは、新型コロナウイルスに感染して亡くなった方が葬儀も行われずに埋葬される、或いは、亡くなった方の遺体に親族でさえも会うことができない。このことにアガンベンは非常に強く反発したんですね。「これは死者の権利の蹂躙ではないか」っていうふうにアガンベンは考えているようです。彼の言葉をひくと、「死者が葬儀の権利を持たない」って言い方をしてるんですね。「死者の権利」なんです。確かに遺体からも人にこのウィルスは感染するのかもしれないですよね。そして感染したら勿論、他の人にそれが更にうつって行くかもしれない。だから疫学的な見方からすれば、勿論、遺体に会えないということは、悲しいことではあるけれども、理解できないことでは無いワケです。でも、他方で、アガンベンが非常に強い口調でこういうことも、僕はすごく判る感じがしたんですね。人が亡くなった方を大事にしない、或いは、お見舞いするってこともできなくなってるワケですけれども、充分死者に対して敬意を払わなくなっていった時、社会はどうなってしまうんだろうか。これに対してアガンベンは次のような言い方をしていて、これは非常に強い問い掛けだと思うし、そして或る意味では「炎上」が起きても仕方がないかもしれない言葉ですけれども、「そうやって生存以外のいかなる価値も認めない社会というのは、一体何なんだろうか」って、いうこういう問いかけをしたんですよね。確かに生存が大切ですよね。勿論、命は大切で、「そうやって生存だけを人々が価値として認めるようになった時、我々の社会はどうなってしまうんだろうか、人間関係はどうなってしまうんだろうか」、つまり、「感染してしまうからという理由で死者に対して葬儀も行わない、死者に対する敬意を持たない。そして死者が葬儀を受ける権利を持たない。そういう社会に我々がもし入ってしまって、そして、そのことを少しも疑問に思わないとしたら、その時、人間の関係はどうなってしまうんだろうか。我々の社会はどうなってしまうんだろうか」っていうのが、アガンベンの問いかけなんですね。
・更に、アガンベンは人間にとって根本的な権利について言及した。

 もう一つ、アガンベンが強調してる大事な点があるんですけど、一つ目は死者の権利、二つ目は何かっていうと、自由のことなんですけれども、自由って言うと、僕ら非常に抽象的に考えてしまうんですよね。そして、自由に色んな種類の自由、、、でも、アガンベンが取り上げるのは、ある一つの自由なんですけど、それ何かって言うと「移動の自由」なんです。アガンベンによれば「移動の自由」っていうのは、他の自由にも増して最も重要であって、実はそれをこそ、なんとしてでも守らなければならない、そういう自由だってことですね。近代の法体系って刑罰を定めてますけど、一番重い刑罰として、ま、死刑が残ってるとして死刑がありますね。一番軽いとしては罰金がありますね。その間、何かって言うと、全部「移動の制限」なんですよね。それ閉じ込めるってことで、監獄に閉じ込めるってことですね。近代は、実は「移動の自由の制限」っていうのが、人間にとって極めて大きな意味を持つ、ってことを或る意味理解していたから、これを刑罰として採用してるワケです。で、もう一つ、東欧の革命ってのが起こったワケですよね。ベルリンの壁の崩壊ってのがあったんですよ。あの時も様々な要因がありますけれども、東独の人々が求めていたのって「移動の自由」なんですよね。「移動の自由を認めてくれ」、、、そのプレッシャーがベルリンの崩壊に至っているんです。この「移動の自由」と東欧革命のことを思うとですね、最近あった非常に心に残るスピーチは一つ思い出されるんですけど、それはドイツのメルケル首相のスピーチですね。
 メルケル首相は東独の出身です。だから自分たちに、或いは人間にとって「移動の自由」っていうのがどれだけ重要なことか、価値あることだっていうのを判っている世代であり、人なんですよね。で、そのメルケルは、今回このコロナに対抗する為に、それを制限しなきゃいけない、けれども、この「移動の自由の制限」っていうのは絶対的に必要な場合のみ正当化されるんだ、と。このことを自分達は分かってなきゃいけないし、自分はとってもそれがよくわかってる世代である。しかし、にもかかわらず今回はそれはどうしてもやらなければなりません。皆さん理解して下さい、っていう、そういうスピーチをしたんですよね。これ非常に心を打たれましたし、さすがだなと思いました。
 
 アガンベンはデモクラシー、民主主義っていうことも言ってるんですけれども、緊急事態だからだっていうことで、それを口実に行政機関が様々なルールをどんどんどんどん作っていってしまって、立法府が蔑ろにされるっていう事態を、彼は民主主義の危機だとしても見てるんですけれども、アガンベンのこの問いかけを読んでいる時に思い出したのが、哲学の起源にいるソクラテスって人がいますけど、ソクラテスは「哲学者っていうのは、(ポリス、都市国家、は人々コミュニティのことですよね)、ポリスにとって「アブ」のような存在だ」って言ったですよね。つまり、みんなが飛び付きやすい、そういう意見とかに飛びついた時にブ~ンって周りに飛んで来てですね、「それでいいのか、本当にそれでいいのか」って言って、「うるさいな、うるさいな、アッチ行け」っていうような、「そういう役割を果たすのが哲学者だ」ってソクラテスは言ったんですよ。アガンベンとしてはそういう哲学者の役割を、「アブ」としての哲学者の役割を果たしてるな、と思って「本当にそのまま突き進んでいいんですか、突き進んだ時、社会どうなっちゃいますか」っていう、そういう問いかけをしてるから、アガンベンが言ってることが正しい凄い、って思ってるワケじゃなくて、アガンベンが問いかけてることを僕ら受け止めなきゃいけないって思ってるんですよね。

 つまり、仮に死者に遺族も会うことができない、死者が葬儀の権利を持たないということが、それを認めなきゃいけなかったとしても、僕らがそのことに少しも疑問を抱かない、僕らがそのことを何の考えも無しに受け入れる、もし、そういうふうに社会がなってしまったら、おかしなことになるんじゃないか、っていうこの問い掛けは、非常に大事な問い掛けだと思っています。死者に対して敬意を持つっていうのは、やっぱり僕らが生きているこの社会が大事にしてきたことをきちんと守っていくことなんですよね。近年、日本だと「立憲主義」っていう言葉がすごく話題になりましたけど、今まで大事に守られてきたルールをやっぱり守っていかないといけないだろう、っていうふうに人が思う時には、やっぱり過去のことを考えるわけですね。死んでしまった人たちのことを、直接にイメージしなくても、その重みがですね、死んでしまった人たちの重みが僕らの今生きている者たちに重石として掛かってくるんです。それが様々な原理や原則に対する敬意や、それを守ろうって気持ちを作ったりするわけですね。もし、死んでしまった人たち、死んでいく人たちに何の敬意もない、っていう、そういう社会が訪れたら、本当に、こう今まで大事にしてきたのに対して、何らかの配慮も無くなってしまう。ペラッペラの薄っぺらい現在だけがある社会になってしまうんですよね。