この国の処方箋

(無断転載不可、商業的使用目的でのコピーは不可)
秋田市牛島東6-4-1
みなみ整形外科クリニック
三浦由太
yuta-doc@h5.dion.ne.jp
http://www.h4.dion.ne.jp/~minami-c/


 序文
 本文
 1.中江藤樹故郷に帰る
 2.学問の目的
 3.教育者の鑑、中江藤樹
 4.加賀の飛脚と又左衛門
 5.日本の陽明学
 6.藤樹の勇気
 7.村の先生
 8.二宮金次郎
 9.不屈の金次郎
10.金次郎の仕法
11.五常の教え
12.日本の近代化と金次郎
13.上杉鷹山
14.藩主教育
15.硬骨の忠臣、佐藤文四郎
16.冷や飯組登用
17.藩民のための改革
18.改革案
19.所信表明
20.勇なるかな
21.板谷峠
22.幸姫
23.改革の火種
24.三助(さんじょ)
25.見れども見えず
26.初めての視察
27.他山の石
28.地場産業振興
29.桑の苗
30.籍田の礼
31.七家騒動
32.秋霜烈日
33.興譲館
34.一字一涙の碑
35.社会福祉
36.行政機構
37.藩主教育2
38.天明の飢饉
39.治憲隠居
40.伝国の辞
41.J・F・ケネディ
42.改革の後退
43.公共事業
44.棒杭の商い
45.東洋のアルカディア
46.日本の進路
47.初等教育
48.中等教育
49.高等教育
50.行政改革
52.農業改革
結語
参考文献
序文
  •  2002年暮れ、日本臨床整形外科学会(JCOA)のメーリングリスト(M
    L)で、わが国をどう立て直したらよいかという話題が出て、私なりにずいぶん考
    えたのだが、今の小泉政権の政策はわが国を破滅に導くものであるということは直
    感的にわかったが、どうすれば再生への歩みを始められるのかということははっき
    りとはわからなかった。

     2002年熊本のJCOA研修会で童門冬二氏の講演を聞き、過去の成功した改
    革の例に学ぶことができるのではないかと、おぼろげながら感じた。その後イラク
    問題に私の興味はとられてしまい、国防や戦争指導理論、北朝鮮の政治体制などに
    当面の勉強の範囲が広がって、わが国の改革のことはわきに退けられた。2003
    年夏、JCOA−MLで二宮尊徳の話題が出て、しっかり童門氏の著作を読んでみ
    ようと思い立って、やっと「二宮金次郎」(集英社文庫)、「中江藤樹」(人物文
    庫)、「上杉鷹山」(集英社文庫)を読んだ。

     それでこうすれば確実にわが国の再生はできるというような方策が見つかったわ
    けではないが、このようなことが大切ではないかというぼんやりとしたことはわ
    かったような気がするので、これらの本を紹介しつつ今後の日本の進むべき道につ
    いて考えてみたいと思う。

     私がこれら童門氏の著作を読んだ順番は「二宮金次郎」、「中江藤樹」、「上杉
    鷹山」の順番だが、彼らの生きた時代は中江(1608〜48)、上杉(175
    1〜1822)、二宮(1787〜1856)の順番になる。一番古い中江藤樹は
    改革のバックボーンとなる思想の領導者みたいなものなので、中江藤樹から話を始
    める。
1.中江藤樹故郷に帰る
  •  日本の漫画がアメリカンコミックとは異なる道を歩んで、子供だけでなく大人も
    楽しめるものとなり、世界に広がる勢いを示しているのは日本には手塚治虫がいた
    からだと言った人がいるようだが、その言い方に習うと、日本の儒教が朝鮮のよう
    な完全に身分序列を秩序付ける、上意に唯々諾々として従う家臣を作り出すための
    国教的なものにならなかったのは、中江藤樹がいたからだともいえよう。

     もちろん思想が広がるためにはそれを受け入れる下地がなくてはならない。それ
    は徳川幕藩体制のはじめから強力な諸侯が存在したということが大きいだろう。諸
    侯からすれば徳川家が、関が原や大阪の陣で勝ったのも自分たちが味方したからだ
    という自負がある。つまり徳川家は諸侯からすれば自分たちの主君ではなく、自分
    たちが担いだ同僚ということになる。中江藤樹の思想はこの下地があったから受け
    入れられたといえよう。

     徳川幕府は幕藩体制を固めるために上意に従順な侍をつくろうとした。そのため
    に体制擁護の思想として朱子学が選ばれ御用学者の林羅山が重用されることにな
    る。全国の侍はこの動きに対して時流に乗り遅れまいといっせいに儒学の学習に
    走った。それに対して戦国以来の独立不羈の精神があるもので、どうしても反発が
    出る。武士は武芸で身を立てるもの、学問など武士を軟弱にしてしまうものだとい
    う感じになる。学問に励む武士は武士の心を忘れた立身出世主義者だとさげすむ風
    潮が生じた。

     中江藤樹は生前は与右衛門といい、藤樹とは死後にその私塾にあった藤の木から
    門人たちがささげた号である。そこで与右衛門と呼ばせていただくが、与右衛門は
    これに反発した。彼が学問をするのは決して立身出世のためではない。四書五経に
    書いてあることをまともに受け取り、真剣に聖賢になる道を歩もうとしているのを
    出世主義者とさげすまれたのでは自分の努力を根底から否定されるようなものであ
    る。

     このあたりの記述は、真剣に患者さんのために日常診療に取り組んでいるのに、
    お金儲けのためだろうと邪推される開業医みたいで身につまされる。医学の勉強は
    そんなになまやさしいものではないのに、必死の努力の結果、みんなの尊敬を受け
    るどころか、「欲張り村の村長さん」とか拝金主義の亡者のように言われなければ
    ならないとは!

     与右衛門はとうとう儒学者として藩に仕える道を断念した。孔子や孟子もそうで
    あった処士としての道を歩み始めた。処士というのは多少の土地と家を持ってい
    て、すぐ暮らしには困らない、自分で学問を修め、人びとにその修めた学問を伝え
    て歩く人のことである。諸国を巡って自説を伝えて歩くが、自説が世の中に受け入
    れられないときは、故郷に戻ってわずかな土地を耕しながら、今度は近隣の人々に
    学問を教えるのである。

     彼は四国伊予大洲藩学問指南役の地位を捨てて、故郷の琵琶湖のほとり近江国小
    川村(滋賀県安曇川町)に戻った。そして隠者として余生を過ごすのでなく、出世
    主義ではない学問を身分の隔てなく近隣の人に教えたのである。

     日本医師会の基礎をつくったというべき武見太郎は終生自由診療を貫いたそうで
    ある。私もいつか借金返済して年金で暮らせるようになったら、ずっと診療を縮小
    して自由診療にしたいなどと夢見たりする。借金の返済も終わり、年金で暮らしに
    は困らない、近隣の人からわずかな謝礼をもらって修めた医学を役立てる、処士な
    らぬ、処医である。
2.学問の目的
  •  彼は日本の陽明学の祖といわれる。しかし、彼が「陽明全書」を読んだのは16
    44年で、もはや彼の人生の晩年となってからのことだった。彼は独自に王陽明に
    近い思想に到達していたというべきであろう。彼の思想は陽明学そのものというわ
    けでもない。

     本書は四書(大学、中庸、論語、孟子)のうちでも普通最初に習う「大学」の冒
    頭の解釈に相当の紙数を割いている。

     これはなぜ学問をするのかという学問の目標を述べているところである。

     「大学」の冒頭には三綱領といわれる有名な言葉が書かれている。「大学之道在
    明明徳、在親民、在止於至善」(大学の道は明徳を明らかにするにあり、民を親
    (あら)たにするにあり、至善にとどまるにあり)

     三綱領とはすなわち明明徳、親民、止至善のことである。

     意味は本書では与右衛門が大洲城で講義をしたときの言葉として次のように述べ
    ている。

    「ご当家でお役に立つ武士になるためには、限りなく自分の能力と人格の二つなが
    らを澄んだ鏡のように磨きに磨かなければならない・・・士たる者は・・・民に対
    して自らが磨いた明徳を及ぼし、民の心を親たにする・・・至善にとどまる、すな
    わちいつまでも絶えざる努力を続け、いよいよ磨きをかけるようにすべきだという
    ことかと存じます」

     「大学」は続けて三綱領の目標に到達する手段として八条目を示す。つまり、格
    物、致知、誠意、正心、修身、斉家、治国、平天下である。

     格物致知は非常に解釈が難しいが、本書を読んで私なりに解釈すると、科学的に
    物事を考えるとよい知恵を身につけることができるということのように思える。以
    下順に、誠意:きちんとした知恵が身につけば自分の気持ちが誠実になる、正心:
    気持ちが誠実になると自分の心が正しくなる、修身:心が正しくなれば自分自身の
    修養ができる、斉家:自分の修養ができると家庭がきちんと整う、治国:家庭が整
    えば国家が立派に治まる、平天下:国家が立派に治まればこの世が平和になる、と
    いう意味のようである。

     修身が治国につながるという話は、のちに二宮金次郎が働く農民一人一人が徳を
    高めるようにしなければ豊かな実りは期待できないというところに通じる

     これら三綱領と八条目は、どこかの学校の校訓とか、誰かの揮毫額とか、立志伝
    中の人物の座右銘とかいろんなところに使われているので、高校時代きちんと漢文
    で習わなかった私も、なんとなくどこかで聞いたぐらいには覚えていた。本書で
    じっくりとその辺を考えていくと、現在の出世のため、試験の点取りのための学問
    は学問の本筋をゆがめていると痛感した。

     映画フーテンの寅さんシリーズで、寅さんのおいの満男君が大学進学で悩むと
    き、何のために勉強するのか、何のために大学進学するのかと寅さんに問いかける
    ところがあった。普通の親なら、いい大学に入れば、いい企業に就職できて高い地
    位と高い収入が見込めるから、と答えるかもしれない。寅さんはそういうコースか
    ら外れた人間だが、だからこそ勉強の重要性を痛感していたとも言えるだろう。彼
    の答えは

    「人間長い間生きてりゃ、いろんなことにぶつかるだろう。そんなときに、俺みて
    えに勉強してないやつは、振ったサイコロの出た目で決めるとか、そのときの気分
    で決めるよりしょうがない。ところが、勉強したやつは、自分の頭で、きちんと筋
    道を立てて、はて?こういうときはどうしたらいいかな?と考えることができるん
    だ。だからみんな大学へ行くんじゃねえか。だろう?」
    というものだった。

     これはたぶん監督(たしか脚本も?)の山田洋次が「大学」を勉強していて、そ
    こを意識したセリフかとも思える。
3.教育者の鑑、中江藤樹
  •  与右衛門の教育方法であるが、これが現在の点取り競争の教育とはまったく違
    う。

     目的がいい学校に合格することではなく、誰もが本来持っている明徳を磨いて、
    明徳を曇らせる私欲や偏見をぬぐいさり、鏡のごとく光り輝かせることにあるわけ
    だから、当然である。

     彼は彼の塾に来る雑多な人々の職業と学問的素養のレベルとに応じて、その興味
    に応じた講義をした。落語にもなった厩(うまや)火事や、孔子が何を食べていた
    かなどという話は高校の漢文の教科書には決して載らないだろう。馬方(うまかた
    =馬子)に講義をするときには馬に関係した話をする、そして彼らの素直な感想を
    ほめる、すると学問に対する興味もわき、孔子といえども日常生活は普通の人と変
    わらなかったのだということを知ることで、誰もが学べば聖人になれるという与右
    衛門の考えに共感できるようになるのである。

     特に彼をしたって大洲から近江の小川村までやってきて住み込みの門人になった
    大野了佐に対する指導は、まさしく与右衛門が教育者の鑑であったことを示すもの
    である。了佐は与右衛門のためには命もいらないほどに彼を尊敬していたが、どう
    しても頭の働きが鈍く、一日かけて一行か二行の漢文を覚えるのがやっと、しかも
    次の日になるときれいに忘れている有様だった。与右衛門は了佐のひたむきさにこ
    たえ、ひたむきに教えた。彼は医者志望の了佐のために難しい漢文の医学書を片端
    から読破し、これを了佐のためにわかりやすくまとめて一書とした。

     生徒の天分には生まれつきの差がある。天分に寄りかかって自分の天分をさらに
    伸ばすように努力しないものこそ、明徳を明らかにする努力を放棄するものであ
    る。逆に天分に恵まれなくとも必死の努力で自分の明徳を磨こうとするものは、与
    右衛門にとっては聖人への道をしっかりと歩んでいると言えるのである。

     もう亡くなったが、当院の近くの剣道場で長年少年剣道の指導に携わっていた剣
    道範士八段奥山京助先生の著書「少年剣道指導講座」(スキージャーナル刊)には

    「飲み込みの速い子と遅い子をいっしょに指導するには」という項目で以下のよう
    に書いてある。
    「初心者や幼少年指導において、単に飲み込みの速さ遅さで区別して指導すること
    は、剣道の理念からも避けたほうがいいでしょう。

     ・・・どこの道場でも、上手になった初心者や幼少年に対しては、それなりにほ
    めていると思います。が、下手な子にも同じように工夫しているでしょうか。・・
    ・わけへだてなくほめてやることが大切です。

    『A君は構えが立派です。もっと振りかぶり大きな声を出したらもっとよくなりま
    す。・・・』

    ・・・
    『C君は一度も遅刻をしたことも、休んだこともない。礼儀も正しい。街で会った
    時には、大きな声で先生に挨拶してくれた。C君は剣道で一番大事なことを実行し
    ています。いくら強くてもC君のようにならないと、立派な剣道をやっているとは
    いえません』

     このようなことをおりにふれて話をすることによって、・・・少年たちはお互い
    の人格を認め合い励ましあって、剣道に親しんでいくと考えます。」
     スポーツでも、勉強でも、成績だけで生徒を評価するのでないこういう先生は、
    昔の学校には多かった気がする。今は先生も生徒の合格率で評価されるみたいだか
    ら先生自身、自分の信念に基づく教育なんかやってはいられないのかもしれない。
4.加賀の飛脚と又左衛門
  •  中江藤樹にまつわるエピソードはいくつもあるが、特に有名なのは熊沢蕃山入門
    のきっかけとなった「加賀の飛脚と又左衛門」の話だろう。

     与右衛門の門人の一人、馬方の又左衛門はあるとき加賀の飛脚太助を馬に乗せ
    た。太助は加賀藩前田家の公金を京都へ運ぶ仕事をしていた。たまたま二百両の金
    をあずかって京都へ行く途中又左衛門の馬に乗ったのである。馬賃を払って太助は
    宿に泊まった。ところが荷物を片付けているときに、お金が紛失しているのを発見
    した。二百両の大金である。本人の首が飛ぶだけではすまない。どこで落としたの
    か?太助は自分がたどった道を思い浮かべたが、見当がつかなかった。

     そこへ又左衛門が宿までお金を届けに来た。お金は鞍の間にはさまっていたの
    だった。そのまま帰ろうとする馬方を太助は呼び止めた。彼は自分の財布から15
    両を出してお礼に受け取らせようとした。しかし、又左衛門は

    「財布はあなたのものである。あなたのものをあなたのところに届けてお礼をもら
    う筋合いはない」
    と頑として受け取らない。そのまま立ち去ろうとするのを太助は土間へ飛び降りて
    袖を捕まえた。
    「それでは十両に減らすから受け取ってください」
    「いりません」
    「五両では」
    「いりません」
    「三両にする」
    「いりません」

     太助は又左衛門の名前を聞いたあと、あなたは自分の命の恩人も同然であるか
    ら、せめて一両受け取ってくれと懇望した。
    「それでは二百文ください。私もいったん家に戻って鞍を下ろしたときに気がつい
    たのですから、家からここまでの往復の手間賃としてそのぐらいなら受け取っても
    いいと思いますので」

     二百文を受け取った又左衛門は宿の主人からそれで酒を買い、宿泊客にふるまっ
    た。どうしてそんなに無欲で正直なのかと太助に問われて又左衛門は与右衛門の塾
    のことを教えた。

     京都について無事に二百両の公金を大名屋敷に届けた後、宿で太助は同宿者にこ
    のはなしを自慢げに語った。そのなかに熊沢左七郎(のちの蕃山)がいたのだっ
    た。

     彼は与右衛門こそは自分の師と仰ぐ人物と思い定め、さっそく小川村の塾に行
    き、一度は断られても雪の中を座り込んで入門を許された。

     後に熊沢蕃山は淵岡山(ふちこうざん)と並んで藤樹門下の双璧と言われるように
    なり、岡山藩で治山・治水・飢饉対策などに手腕をふるった。
5.日本の陽明学
  •  陽明学は日本に伝わる以前に朝鮮で危険思想の烙印を押された。身分秩序を乱す
    ものとしてまず危険であるわけだが、特に危険視されたのはその行動主義である。
    朱子が知識を学習しそれから学習した知識を実践するという先知後行を主張したの
    に対し、王陽明は知識と実践は一体のものであるとして、知行合一を唱えた。

     熊沢蕃山は岡山で治山治水の工事を指導したが、蕃山設計と伝えられる堤防が今
    も残っている。明治になって日本各地に軍港をつくることを命ぜられた建設業者が
    この堤を見学した。その工法が近代的工法に適合していることに驚いた彼は堤の設
    計者は誰かと県庁の責任者に尋ねた。熊沢蕃山という答えを聞いて彼は「今晩ぜひ
    会いたい」と言ったそうである。江戸時代前期に洋式工法を会得した人物が岡山に
    いたとは思わなかったのだろう。

     「大学」の冒頭の八条目のひとつ、格物とは訓では「ものにいたる」と読むが、
    原義は物事の道理を突き詰めるという意味である。物事の道理を突き詰めれば科学
    的で合理的な考えとなり、それを実践してこのような堤ができたというのが知行合
    一の例と言えるだろう。蕃山は岡山藩の重役として治山治水、飢饉対策に手腕を振
    るっただけでなく、幕藩体制について徹底して体制批判をした。そのため、彼は岡
    山藩もかばいきれなくなって失脚し晩年は不遇だった。

     のちの大塩平八郎も陽明学派であり、陽明学から佐久間象山、吉田松陰らも影響
    を受けたと考えられるので、幕府が危険思想とみなしたのも非常に根拠があったと
    も言えるだろう。

     吉田松陰などは結果を考えずに行動する感じで、病的なほどに精神主義的で、こ
    れほどになると、もはや非合理的なところまで達してしまい、彼が同志から孤立し
    ていったのもやむをえないかとも思う。

     中江藤樹は正面きって体制批判を実践したりはしなかった。日本で陽明学が生き
    残ったのは一つには「権力を畏れない在野精神」を戦国以来の大名とその家臣団が
    受け入れる素地があり、なおかつそうした思想家を幕府からある程度かばう力が
    あったことと、日本の開祖中江藤樹が陽明学を体制批判の方向にではなく、「人と
    して守るべき道徳」として、単に体制秩序に従うのではなく、自分の心の明徳を磨
    くという方向で、教えを発展させたことによるのではないだろうか。
6.藤樹の勇気
  •  藤樹の教えが結果を考えない行動主義であったのかどうか、考えさせるエピソー
    ドが伝わっている。

     あるとき藤樹は夜道で三人の盗賊に取り囲まれた。彼は、金がほしいのかと
    いって財布を取り出した。そのまま渡すのかと盗賊は期待したが、ちょっと待てと
    いって考え込んだ。そしてこう言った。金はある、渡すのもたやすい。しかし、お
    前たちの行いは間違っている。間違った行いに私は屈するわけにはいかない。かつ
    て私は武士だった時期がある。多少の心得はある。勝負しよう、といって刀を抜い
    た。盗賊は驚いた。名前を問うて近郷に聖人としてその名をとどろかす中江与右衛
    門と聞き、二度びっくり。自分たちは生き神様に刀を向けてしまったのだ。盗賊た
    ちは地面に手をついて許しを請い、その後藤樹の門人となった。

     中江藤樹が信念の人であったことは疑いなく、おそらく殺されても強制的に自分
    の信念を曲げることはなかっただろう。そもそも、夜道で盗賊に囲まれたときに、
    まず財布を取り出して相手の機先を制し、ちょっと待てといって殺気をはぐらかす
    などという芸当は並みの胆力でできるものではない。

    盗賊相手なら、とりあえず財布を渡して後日取り締まるという方法がないわけでも
    ない。それはちっとも普段彼が教えていたことを放棄したとか、言行不一致とかい
    うことにはならないだろう。韓信の股くぐりの例もある。処士として日本に聖人の
    道の教えを広めることを自分の使命と考えるなら、財布を渡すぐらい、耐え忍ぶべ
    き大事の前の小事である。それでも彼は財布を渡さず「勝負しよう」と刀を抜いた
    のである。

     ちょっと待てと考え込んだというのも面白いところである。何を考えたのだろう
    か。ここで死んでもすでに自分の教えを日本に広めてくれる弟子は育ったと考えた
    のか、ここで死ぬことに犬死とは違うと言い切れる意義を感じたのか?少なくとも
    彼は浅慮な過激派とは違うタイプであったことは確実である。彼は死を覚悟して刀
    を抜いたのか、勝負は五分五分ぐらいと踏んで刀を抜いたのか、考えようによって
    いくらでも考えられるエピソードである。

     ここまで考えると、吉田松陰を結果を考えない過激派と簡単に断ずるわけにもい
    かない。彼は、すでに松下村塾に維新の種は十分に育ったと確信し、長州という火
    薬庫に自分が火をつけることが必要だと、熟慮の結果決断したのかもしれない。将
    棋で3手先の局面を読めない初心者が ただで金を取られるのと、名人が詰みまで
    読みきって金をただで捨てるのと、素人目には区別がつかないものである。

     熊沢蕃山は藤樹の処士の精神よりも、より現実を重視し、現実の場に出て、現実
    と戦う行動主義を発展させた。これに対し藤樹門下で熊沢蕃山と並んで有名な淵岡
    山(ふちこうざん)は会津出身で、会津地方には「正統」な藤樹学が伝わった。これ
    は藩学として武士の間に広まったのではない。会津地方では町や村の有力者が自分
    の家を講席として民衆に藤樹学を広めたのである。

     朱子学を国教として徹底した中央集権制を敷き、少しでも上意に逆らうような思
    想を根絶やしにした朝鮮は、近代化の波が押し寄せたとき、これに適応する改革を
    行うことができなかった。日本で明治維新が成功したのは、一つには幕末にいたっ
    ても幕府権力に抵抗できる雄藩が存在したことと、もう一つ在野精神の思想的バッ
    クボーンとして陽明学が広がっていたことが、大きかったといっていいだろう。

     そして日本人の道徳の根底をなす、正直とか、礼節とか、誠実とかいう美徳は中
    江藤樹のような「村の先生」によって基盤をすえられたのだろう。幕府の大名取り
    潰し政策によって巷にあふれた浪人が由比小雪の乱みたいな方向に向かうよりは、
    寺子屋の先生としておとなしくしていてくれたほうが幕府にとっても都合がよかっ
    ただろう。そして浪人たちもお城づとめの間には味わうことのできなかった満足感
    を百姓町人に読み書きを教える中で味わうことができたに違いない。こうして藤樹
    を始祖とする「村の先生」は日本中に広まったのだろう。そうでなければ明治に
    なって突然義務教育をやるといっても教師の養成が追いつくはずがない。

    日本の教育改革を考えるとき、週何日制とか、詰め込み式にするか、ゆとり教育に
    するか、愛国心を養う教育がどうとか、そんなことよりも、私としては、藤樹のよ
    うな教育者を養成することが急務だと思われてならない。
7.村の先生
  •  童門冬二氏は内村鑑三の「代表的日本人」に書かれた五人の人物(西郷隆盛、上
    杉鷹山、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮上人)を小説化するのをライフワークとしてい
    るという。内村の原著は英文で書かれたものだが、私は岩波文庫の日本語訳を読ん
    だ。新渡戸稲造の「武士道」もそうだが、こうした著作を英文で著したことが西洋
    での日本文化の理解につながり、また外から眺めた日本の良さの再認識につながっ
    ていると思う。呉善花氏の日本語の著作「私はいかにして日本信徒となったか」
    や、韓国では禁書扱いの金完燮著「親日派のための弁明」(草思社)の日本語訳な
    どが今後の韓日の相互理解に大いに役立つと期待されるが、これらの著者も韓国外
    で祖国を見直すことで、どういうことを日本人に伝え、どういうことを自国人に伝
    えるのが相互理解につながるのかを認識した。自分の国の文化と歴史について深い
    理解がなければこうした著作を著すことはできない。アラブ人でイスラムの文化と
    歴史に深い知識があり、かつ西洋の文化と歴史にも通じているような、わが国の内
    村鑑三や、新渡戸稲造のような人物がいてくれるとアラブと西洋の相互理解も進む
    と思う。

     さて、その内村鑑三の「代表的日本人」では中江藤樹の項の副題は「村の先生」
    だった。「村の先生」といえば私が思い出すのは私が小学5年のときに担任になっ
    た I 先生のことである。

     5年生の夏休み中に臨海学校があった。海を見るのは初めてという生徒が多かっ
    たように思う。私たちはおおはしゃぎだった。買い物の時間があった。

     買い物ということについて少し解説が必要だろう。それは岩手の寒村の小学生に
    とって特別なことなのである。子供たちが自分で買い物をするという機会はほとん
    どない。まず、店というものがほとんどない。小学校の東に駅があり、駅の近くに
    雑貨屋があったが、私たち学校の西から通学する子供たちにとっては駅に行く機会
    はない。私の家から学校まで片道4キロあり、私は毎日片道1時間かかって小学校
    に通った。雪の日は朝に馬ソリによる雪かきがあったが、日中にずいぶん積もると
    きもあり、子供たちの雪道の通学は大変だった。遠いところでは岩手山のふもとの
    開拓農家から通学する子供たちもいて、彼らは朝6時ごろに家を出るという話だっ
    た。開拓農家の暮らしは大変で次第に村を去る農家が多く、その小学校も私たちの
    学年までは2クラスあったが、すぐ下の学年からは1クラスとなり、複式学級から
    いずれは廃校になると大人たちはうわさしていた。今は盛岡のベッドタウンとなっ
    てその小学校もマンモス化したそうである。日本人の誰もが車を所有するようにな
    り、その村が盛岡までの通勤圏になるとは、そのころ夢にも思わぬことだった。私
    は中学校から盛岡の中高一貫校に行ったが、私のクラスの同級生で高校に進学した
    のは少数派だったはずである。1975年の最後の集団就職列車にも岩手県からま
    だ中卒就職者358人が乗っていた。

     ノートや鉛筆などの日用品は学校の購買部で買う。農家では食べ物はほとんど自
    給自足であり、靴とか衣類とか特別な買い物の時だけバスで盛岡に出かけるが、こ
    れらは子供が自分でお金を出すような買い物ではない。だから子供たちにとってお
    みやげの並んだ店で自分で好きなものを選んで買うということは臨海学校の一大イ
    ベントであり、近所で自分のこづかいで買い食いなどしている町の子供たちには想
    像もつかないほどに待ちに待った貴重な時間なのだった。

     お小遣いは500円と決められていた。岩倉具視の500円札を持ってきている
    子供もいたが、たいがいは板垣退助のしわくちゃの百円札5枚である。子供を高校
    に上げてやることもできない家庭が多かった時代である。臨海学校のお金は積み立
    てだったが、この500円を子供たちに持たせるための親の苦労はどの子も痛いほ
    どに感じていた。

     さあ、買い物というときに一人の子供がお金がないことに気がついた。どこかで
    財布を落としたらしい。彼は持ってきた荷物を逆さにして探した。子供たちは臨海
    学校では5人組の班で行動することになっていた。私がその子の班の班長だった。
    みんなで部屋中の布団をひっくり返し、いっしょうけんめい探したが見つからな
    い。ほかの班の子供たちはとっくに楽しそうに出かけて行った。

     「○君を置いていこう」一人が言った。私もこれだけ探して出てこなければしか
    たないと思った。お金がないのに買い物はできないし、買い物の時間は限られてい
    る。

     「でも・・・」やさしい女の子が口ごもった。先生に相談したら、と言いたかっ
    たのかもしれない。でも先生もみんなといっしょに出かけている。先生を探してい
    たら、楽しい買い物の時間はほとんどなくなる。財布をなくすようなうっかりもの
    のためにほかの4人まで犠牲になる必要はないし、物をなくしたり忘れたりしたら
    罰が与えられなければならないと私は思った。「しかたないよな。わかるよな」私
    はその子に念を押した。その子は悲しげにうなずいた。

     私たちは楽しく買い物を済ませて部屋に戻った。鬼のような形相の I 先生が
    待ち構えていた。普段はやさしく、ひょうきんな先生がこんなに怒ったのはあとに
    も先にもこのときだけだった。4人ともこっぴどくしかられたが、班長の私は特に
    しかられた。

    「ユータ、先生はなさけないぞ、見ろ、○君はずっと泣いてたんだぞ」普段いたず
    らっ子でけんかもめっぽう強く、一度も泣いたところを見せたことがない彼がしゃ
    くりあげているのを見てさすがに私は悪いことをしたと気づいた。「お前は普段何
    を勉強しているんだ。ほかの4人が百円ずつ出し合えば5人とも400円で買い物
    できるじゃないか。こういうときに算数使わなかったら勉強は何の意味もないぞ。
    お前は友達を何だと思ってるんだ?一人だけ取り残される○君の気持ちを考えな
    かったのか?」

     そのときの I 先生の悲しそうな表情を忘れることができない。先生はその時
    たぶんまだ40歳にはなっていなかったはずである。今は私のほうがそのときの先
    生より年をとってしまったし、私にも子供もいるので先生の気持ちがよくわかる。
    彼は自分の教え子にこんな思いやりのない子供が育ったことに驚き、自分の教育が
    どこか間違っていたのかと反省していたのだろう。彼の怒りは自分の教育に対する
    怒りであり、彼の悲しみは自分の思いが子供に伝わらなかったことに対する悲しみ
    だったに違いない。彼は自分の財布から500円出して○君を一人買い物に行かせ
    た。

     彼はこのときまでに私の心にしみついていた曇りを一度すっかり拭い去ってくれ
    た。それから何十年もの歳月がたち、ずいぶん私の心も曇ってしまった。「中江藤
    樹」を読んで私は I 先生のことを思い出し、もう一度自分の心の鏡を毎日磨き
    続けようと思った。

     内村鑑三は「現代にみられるような適者生存の原理にもとづく教育制度は、寛大
    で人を愛する君子の養成には向いていない」と日本の昔の教育の優れている点につ
    いて述べている。かつては日本のどこの村にも I 先生のような先生がいたと思
    う。

     少年犯罪の凶悪化について識者がいろいろな意見を開陳している。いわく、父親
    の権威の喪失、暴力的テレビ番組やテレビゲームの氾濫、等々。たしか、あるコメ
    ンテーターはナイフを持ってバスジャックした高校生の事件について日本の学校で
    いじめがあったりするのが原因で、アメリカではきちんとした教育が行われている
    のでこんなことはないとコメントしていた。ほどなく、アメリカの高校で小銃を乱
    射した高校生の事件があったとき、彼はそ知らぬ顔で民間人が銃を所持できるアメ
    リカの制度の欠陥についてコメントをしていた。もちろん、原因を一言で言うこと
    はできないだろう。いくつもの要因が重なって生じていることだろう。しかし、非
    常に大きな原因の一つは I 先生のような先生が少なくなったことだと言ってい
    いのではなかろうか?
8.二宮金次郎
  •  私が紹介するとお約束した童門氏の著作の順番、時代順なら中江藤樹の次は上杉
    鷹山ということになる。鷹山は藤樹の死のほぼ百年後に生まれ、二宮金次郎は鷹山
    が生まれてから36年後に生まれ、金次郎が数え36歳のときに鷹山が亡くなった
    勘定である。日本史上の事件と関連付けると、藤樹が生まれた1608年は関が原
    の戦いの8年後、大坂夏の陣で豊臣氏が滅ぶ7年前である。以後幕藩体制が固ま
    り、ペリーの黒船来航は金次郎が死ぬ3年前のことだった。改革が話題なので、江
    戸時代の有名な飢饉をあげておくと、徳川吉宗の享保の改革の最中の享保の飢饉が
    1732年、このときの凶作は1年だけだったが、餓死者12000人を超え、翌
    年米価暴騰をきっかけとして江戸で初めて打ちこわしが起こった。鷹山の改革が軌
    道に乗りかけたときに起こったのが、1783年の浅間山の噴火による異常気象で
    生じた天明の飢饉。この冷害は数年間続き、被害ははるかに甚大で江戸大坂の打ち
    こわしも頻発した。金次郎が改革に手腕を振るった時期に起こったのが、183
    3〜36年の天保の飢饉。このときの被害は天明の飢饉ほどではなかったようだ
    が、餓死者数十万と伝えられている。このときも各地に打ちこわしが起こり、特に
    1837年の大塩平八郎の乱は有名である。天保の異常気象には1835年の中米
    コクゼイナ火山の噴火が影響していたようである。

     しかし、鷹山より先に金次郎の話をしたいと思う。というのは金次郎は農民出身
    であり、身分制度の江戸時代では一生を農村復興にささげつくしたとしてもその成
    果は限られざるを得ない。鷹山の努力も当時の封建領主として並大抵のものではな
    かったが、彼は改革に乗り出したはじめから米沢藩主であり、私たちが日本全体の
    建て直しの参考にしようとする場合、鷹山の思想と事跡に教えられるところが大き
    いのである。そこで「上からの」改革の鷹山を最後に回して、「下からの」改革者
    金次郎について先に話を進めたいと思う。
9.不屈の金次郎
  •  「下からの」改革者である金次郎はまず農民指導者となるために苦闘しなくては
    ならなかった。その前にまず生きるために苦闘しなくてはならなかった。

     金次郎は現在の神奈川県小田原市栢山に生まれた。二宮家は栢山村の百姓のうち
    では非常に古い家柄で、父利右衛門は地域の困りごとの相談を引き受けたり、お金
    を貸したりして、「栢山の善人」とか「仏の利右衛門さん」などと呼ばれた。その
    父が金次郎数え14歳のとき1800年に亡くなった。翌々年4月には母も死んで
    しまう。親戚たちも世話をやいてくれたし、長男の金次郎も必死に働いた。彼は身
    長180センチ以上あり、頑健な体つきの偉丈夫だったと伝えられている。両親を
    失ったとき数え16歳だから今なら中学3年生、若い金次郎が一家を支えようと必
    死の努力をするのをあざ笑うように6月の大洪水で金次郎の田が流されてしまっ
    た。こんなことがきっかけで簡単にやくざや強盗になってしまう若者も多いのでは
    なかろうか。しかし、金次郎はあきらめなかった。

     弟二人は母の実家に引き取られ、金次郎は父の縁者である万兵衛という伯父の家
    に預けられた。子供向けの伝記だと、この万兵衛が意地悪な伯父で、油を惜しんで
    金次郎に夜に本を読ませないようにしたという話になっている。本書では万兵衛は
    百姓に学問はいらないという考えの人物であり、金次郎を早く独立できるように農
    民としてきたえようとしていたことになっている。もし本当に万兵衛伯父が金次郎
    を牛馬のようにこき使いたいだけであったら金次郎の独立したいという願いをこと
    ごとに邪魔したはずだから、本書の解釈のほうが正しいように思う。

     金次郎は伯父にいかにしかられても学問をやめなかった。彼は当時の農村でよく
    読まれていた「大学」を読んでいた。このあたり、「村の先生」中江藤樹のまいた
    種が百五十年後の日本のあちこちに根を張りつつあったのかもしれない。しかし、
    万兵衛のことば「本を読まなくても、農民の立場に立てば空の雲や、水の流れから
    でも学ぶことはいくらでもある。」は、格物致知を無学な農民のことばで表したも
    のといっていい。金次郎は、農民として、種が育ち、実をつける経過を見る中で、
    本の中の学問が生きた学問となっていくのを感じたことだろう。彼は農作業に精を
    出すかたわら、本を読むのも決してやめなかった。たきぎを背負って本を読む銅像
    はこの当時の彼の姿なのだろう。
10.金次郎の仕法
  •  人は何かを教わろうとするとき、注意深くなり、謙虚で真剣になる。雲の動き
    や、水の流れや、植物の成長や、自分の耕す大地も自分の先生だと思い定めた金次
    郎はかげひなたなく働いた。のちに金次郎が夏に取れたナスを食べて、凶作を予言
    した話は有名である。夏のナスが秋ナスのような味がしたので今年はもはや夏が終
    わってしまったと判断したのである。私はナスは好物でこれまでいくつ食べたか勘
    定できないが、秋ナスも夏のナスも違いがよくわからない。どんな優秀な教師も学
    ぶ気のない生徒にものを教えるのは困難である。浮力の原理を発見したアルキメデ
    スも、日常の瑣末なことを注意深く観察して大発見をしたのだった。ひるがえって
    私など、日常診療で患者さんが一番の先生という言葉だけは知っていても、漫然と
    仕事をこなすだけになっていないか大いに反省させられるところである。

     ほどなく金次郎は洪水以来荒れ果てたままの実家を再興した。小さなことでも
    積み重ねていけば大きなことができる、「積小為大」は彼の体験から生まれた思想
    である。金次郎は小田原の城下でも学問好きの農民として有名になった。彼は小田
    原藩の重役服部家の子供たちの家庭教師になった。

     のちに彼が農村復興で行った仕法の原則は「入るを量って、出ずるを制す」であ
    る。国だろうと、会社だろうと、家庭だろうと、経営についてはこれが大原則であ
    る。しかし、彼はこれを、このころまでに失敗が明らかとなった松平定信の寛政の
    改革のような勤倹節約一本やりの主張とはとらえなかった。「入る」を「積小為
    大」と結びつけてもっと流動的なものとしてとらえた。「入る」を増やすのは当事
    者の限りない努力である。逆に「入る」を減らすのは驕慢と怠惰である。

     藩の学校に通う服部家の息子の供をして往復の途次にこうした話をするうち、こ
    の息子がこうした考えに非常に興味を示した。当時の武士の子が経済や経営に関心
    を示したのは珍しいといっていいだろう。金次郎はやがて財政窮乏の服部家の再興
    に力を振るうことになる。彼はまず服部家の収入をつぶさに調べた。それも十年間
    にわたって調査した。その十年間の平均を服部家の収入として、基礎データとし
    た。この調査の過程で彼は服部家には財政の観念がないということに気づいた。支
    出が先にあって、あとから振り返ったら収入がないのである。まるでお金が人の努
    力によらず天地の間をめぐっている水ででもあるかのようである。「金は天下の回
    りもの」とは言っても、お金は雨のように天から降ってきたり、泉のように地から
    わいてきたりはしない。

     現在の日本の官僚も当時の武士と同じような感覚のように思える。国の収入を増
    やすには消費税の税率をどうするかよりも国民の勤労意欲を高めることが大切なの
    である。
11.五常の教え
  • 金次郎は服部家の主人と使用人の意識改革から着手した。

     服部家の意識改革とはまずお金のありがたみを教えることだった。武士はお金を
    汚いものと考えている。使用人はお金は給金として自動的にふところに入るものと
    考えている。これでは復興などできない。

     主人には毎食一汁一菜で辛抱してもらう、使用人には薪や油の管理係を決め、十
    年間の平均使用量より減らしたら、節約分を金次郎が買い取るということにした。
    主人はお金があったらもとの食事ができるのにと、お金に対する渇望が生じ、使用
    人は自分の工夫で節約すればそれが収入につながる。主人はお金のない悲しさを味
    わい、使用人はお金を得る喜びを感じることになったわけである。金次郎はこれを
    お金の「徳」を発見するといった。

     中江藤樹は誰の心にも「明徳」があり、これを磨くことが学問の目的で、これを
    磨きぬくことで誰もが聖人になることができると考えた。金次郎は荒れ果てた田ん
    ぼを耕して豊かな実りを得たことで、徳は人の心だけでなく、どこにでもあると考
    えるようになった。洪水で流され、河原の石が流れ込んだ田んぼもこつこつ耕せば
    再び美田となる。田んぼの徳を発掘したのである。

     彼は主人に藩庁から千両の金を借りて、それを藩士に貸し出すようにさせた。武
    士に金貸しをしろというのかと、主人は怒ったが、金次郎はお金は汚いものではな
    く、その徳を生かすようにすればいいのだと主張した。

     これを彼は仁義礼智信にあてはめて「五常の教え」と言った。

    1.金を貸すということは貸すという言葉で表現すべきではなく、多少余裕のある
    人から、困っている人に”差し出す”ことなのだ。これを推譲と言ってもいい。す
    なわち推譲は仁である。

    2.借りたほうが約束を守って正しく返済するのは義である。

    3.借りたほうが返済するとき、あるいはその後に、必要な金を推譲してもらった
    恩に報いるために冥加金を差し出すのは礼である。

    4.借りた金を早く返済するために努力し、工夫するのは智である。

    5.人として貸借の約束を守るのは信である。

     彼は主人がお金を貸すときに使い道に注文をつけるようにさせた。藩士が困窮し
    ている原因は筆や、提灯、笠などの内職の品物の代金の支払いが遅れ、しかも原料
    費が高騰したため新しい原料の仕入れができないことにあった。そこで、借りた金
    は内職の原料代に回すよう注文をつけて貸したのである。藩士たちは借りたお金で
    内職の原料を買い、働きに働いた。内職に潜んでいた徳を掘り起こしたのである。
12.日本の近代化と金次郎
  •  お金は人を不幸にもするし、幸福にもする。人間の徳を引き出すようにお金を使
    えばいいのだという金次郎の教えは、近代ブルジョア思想で勤労は美徳であると教
    えたのと通じるような気がする。この考えでは個人が利益追求をするのを制限する
    のは他者の基本的人権を侵害しない範囲でということだけだが、金次郎はここに儒
    教的道徳を持ち込んだ。

     農作業をすることは土に潜んだ徳を掘り起こすこと、内職に励むことは内職に潜
    んだ徳を掘り起こすこと、身分制度の当時、働くのは身分の低い人間のやること
    で、お金もうけは後ろ暗いような意識があった。これを道徳的な行為だと正当付け
    たのである。そしてお金を稼いで自分が幸福になったら、それを他者に分け与え
    る、彼の言う「推譲」である。これは単なる恵まれない人への慈善ではない、お金
    を得たほうも返済のために自分に潜む徳を開発しなくてはならない、こうして彼の
    思想は小田原城下に次第に広まったのだった。

    リカードが「経済学および課税の原理」を発表したのが1817年、ほとんど同じ
    時期に日本でも素朴ではあるが道徳的な労働価値説が広まっていたわけである。

     その後金次郎は、農民を復興事業の責任者にするのは武士の権威を否定するもの
    だという旧来の身分制の抵抗と悪戦苦闘しながら、数々の農村復興事業を成功させ
    た。その基本は田畑が荒れているのは人の心が荒れているからであり、人の心を復
    興させ、勤労意欲を引き出さなければ復興は成功しないという考えだった。

     小田原藩主大久保忠真は金次郎の仕法を「なんじの道は以徳報徳(徳をもって徳
    に報いる)に似たり」と語った。以後金次郎はこの言葉を大切にして「報徳」とい
    う言葉を使った。明治維新後、報徳思想は、アダム・スミスが近代資本主義とむす
    びついたように、日本の近代化推進の思想として国策と結びつき、全国に広まっ
    た。

     戦前の軍国主義によって金次郎が利用され、二宮金次郎=刻苦勉励=軍国主義と
    いうイメージになってしまったのはまことに残念だが、日本人が勤勉で正直な民族
    となったのはこの教育があったおかげではなかろうか?国民の一人一人が自分の仕
    事に誇りと責任を自覚し、職責を果たすことが道徳の基礎であり、働く人の誰か一
    人でも手抜きをすれば大きな事業はできないという思想が日本の近代化を支え、戦
    後の高度成長をもたらしたものだったように思える。

     資本主義が進むと過剰生産恐慌が起こるようになり、日本の倉庫に売れ残った在
    庫品が山と詰まれる一方で、世界各地で餓死におびえる民衆がいるという矛盾に満
    ちた現実が生じている。生産が過剰であれば、働くことは必ずしも美徳であるとは
    言えず、働かないで一攫千金をねらうほうがかっこいいという風潮に流されていく
    のかもしれない。私はそうは思わない。過剰生産が問題となる時代にあっても、金
    次郎の思想はなお輝きを失っていないと考える。
13.上杉鷹山
  • いよいよ、上杉鷹山についての話を始める。ここで取り上げている童門冬ニ氏の
    三作品は、いずれも筋立ても面白く、内容も平易で、一気に読めるが、私見ではこ
    の「上杉鷹山」が一番面白い。上杉鷹山の事跡を紹介しつつ、忠臣佐藤文四郎と元
    奥女中みすずとの恋物語をからめ、藩政改革反対派の陰謀、改革が軌道に乗ったと
    ころで中心人物の竹俣当綱がおちいる腐敗堕落・・・。緊迫した場面と、ほのぼの
    した場面、泣かせる場面のバランスも程よく、波乱万丈のストーリー展開で、娯楽
    小説としても一級品といっていい。

     上杉家といえば、戦国大名上杉謙信が有名である。謙信は越後の大名だったが、
    その死後養子同士の家督争いがあり、これに勝った景勝の代に豊臣秀吉に従って天
    下統一に協力し、会津に転封されて120万石の大大名になった。しかし、関が原
    の戦いでは石田光成に味方したため、出羽米沢30万石に一気に減封された。つま
    り米沢藩主としては景勝が初代ということになる。

     ところが減封されても人員整理をしなかった。収入が4分の1になって、120
    万石の大大名のときと同じ家臣をかかえて、同じ生活をすれば当然財政は破綻す
    る。悪いときには悪いことが重なるもの。寛文4年(1664年)3代藩主が急死
    した。急なことでまだ相続人を決めていなかった。幕府の政策としてはこういう事
    態はお家お取りつぶし、知行召し上げの恰好の口実となる。親戚の老中保科正之の
    奔走によりかろうじて断絶を免れたが、知行は半分の15万石に減らされた。

     養子に入ったのは吉良上野介の子だった。これが元禄15年(1702年)の忠
    臣蔵事件の38年前のことである。上野介もまだ壮年だった。その養子藩主綱憲の
    実父上野介がことごとに藩政に干渉した。上杉家の当主になる幼い綱憲に実父の与
    えた訓戒はたった一言、

    「誰からも馬鹿にされるな。特に家臣から馬鹿にされるな」

    だった。

     では、馬鹿にされないためにはどうすればいいのか、「家臣に給与の大盤振る舞
    いをしろ」ということになる。確かにこれなら家臣は喜んで幼い養子藩主を迎える
    だろうが、その収入はどこに求めるのか?

     吉良に言わせると、

    「そんなことは重臣どもが考えろ。そのために高い給与をもらっているのだろう」
    ということになる。

     おかげで米沢藩15万石のうち、13万3千石が家臣の給与総額ということに
    なった。それだけではない。

    「他の大名に馬鹿にされないためには、かつての百二十万石の格式と外形を飾るこ
    とが必要だ」

    といって、行事や交際や、城の中の生活などのすべてを景勝の時代の習慣に戻した
    のである。

     なんだか、自分の給料の増額を計画し、外国への体面を重視して、派兵はする
    は、資金供与はするは、対外債権は放棄するは、大盤振る舞いし放題で、国家財政
    は火の車、経済政策は部下に丸投げという小泉総理とよく似ている。

     この方式で幕府高家筆頭として礼儀指南にあたったのだから、まともな経済観念
    のある藩主なら付き合いきれなかっただろう。忠臣蔵事件は起こるべくして起こっ
    たというべきだろう。

     吉良が殺されて上杉家もむしろほっとしたはずだが、今でも米沢では忠臣蔵は不
    人気のようである。吉良の言うがままに増やされ続けた負債は綱憲ののち、8代重
    定まで4人の当主の時代にも解消されるどころか、むしろ代を重ねるごとに借金の
    利子が増えていった。

     1767年上杉治憲(後の鷹山)が数え17歳(今なら高校1年生)で上杉家の
    家督を継ぎ、第9代米沢藩主となったときの状況は幕府に藩を返上することを本気
    で検討するほどの状況だった。生活苦から他領へ逃げ出す農民が相次いでいる状況
    で、農民からはこれ以上年貢の絞りようもなく、藩士は給与の半分以上を返上して
    いてこれ以上は限界、商人は誰一人金を貸してくれなかった。
14.藩主教育
  •  治憲は米沢生まれではなく、日向高鍋藩主秋月種実の次男として生まれた。母が
    上杉家5代綱憲の孫に当たる。当時大名の妻子は江戸藩邸で暮らすことが義務づけ
    られていた。徳川家に謀反を企てさせないための、いわば人質である。宝暦10年
    (1760年)数え10歳のとき上杉重定の養子となり、世子(あとつぎ)と定め
    られた。この年高鍋藩邸から米沢藩邸に移ったが、どちらの国許も知らない江戸暮
    らしであることに変わりはない。

     彼の学問の師は、はじめは藩医であり学者である藁科松柏(わらしなしょうは
    く)であった。長じて松柏の師である細井平洲の講義を受けた。平洲による初講義
    は数え14歳、今なら中学1年のときである。

     細井平洲は尾張の生まれで、少年のころから京都に出て勉学をした。その期間
    は極度に生活を切り詰め、父から送られる学費はほとんど本に使った。故郷に帰る
    ときは着物はぼろぼろ、垢まみれで、乞食のようだったが、馬を一頭引いていた。
    馬の背には馬がつぶれそうなほど本がくくりつけられていた。24歳のとき江戸に
    出て学塾を開いた。

     平洲の学風は一応朱子学であったが、幅広い応用性を大切にし、学問と現実とが
    別の道にならないようにすべきだと説いた。日常生活に役に立たないような学問は
    教えない。あまり高邁高遠な理論や学説は教えず、また、教え方もかなりくだいた
    表現を使った。

     米沢藩主となるべき治憲に対し、平洲は「政治の基は道義である」ということ
    を徹底して教えた。
15.硬骨の忠臣、佐藤文四郎
  •  治憲の近習として終生忠節を尽くすことになる佐藤文四郎も治憲の後ろで細井
    平洲の講義を聞いた。佐藤は年齢も2歳上と治憲と近く、治憲に対してもズケズケ
    直言をする間柄であった。

     こんなことがあった。17歳で家督を相続した治憲は平洲から領内の孝子や節
    婦の表彰をするよう助言を受け、さっそく急使を米沢に派遣した。米沢から折り返
    し名簿が届き、佐藤は徹夜でこれを整理した。ちょうどその日平洲の講義があった
    ので、名簿を平洲にも見せるよう勧めた。治憲は必ず見せると約束したが、その大
    事な用をうっかり忘れた。

     平洲が帰った後、佐藤は爆発した。

    「何かお忘れになったことはございませぬか?」

    「何も忘れてはおらぬが・・・」

    「孝子、節婦の名簿がございましたでしょう」

    「あっ」

    治憲の顔色が変わった。

    「文四郎、許せ」

    「何ゆえあの名簿を細井先生にお見せになりませんでしたか」

    「忘れたのだ。徹夜をしたお前の努力をまったく無駄にした。すまぬ」

    「私がお尋ねしているのは徹夜のことなんかではないっ」

     佐藤は幼少のころから武術に励み、筋骨たくましく、声も大きい。その佐藤が主
    君を怒鳴りつけるのだから、側近も真っ青になった。しかし治憲は佐藤に怒るどこ
    ろかますます反省の色を濃くした。

    「本当にすまぬ。失念したのだ」

    「あなた様のご政道とは、このように大事なことをお忘れになるような、そんない
    い加減なものでございますか」

    「ちがう。こんなことは今まで一度もない。自分でも理由がわからぬ」

    「お屋形様は今日まで細井先生のお教えをどのようにお受けになってきたのでござ
    いますか。このようなお方を今まで名君とあがめ、賢君と信じてきたこの佐藤文四
    郎は米沢一のおおたわけでございます。情けなくて涙がこぼれます」

     なおも治憲が反省の色を見せても佐藤はおさまらず、側近が引き離したが、その
    日、夜になっても治憲は食事に手をつけない。佐藤も正座のままである。二人とも
    言い出したら聞かないから、ほおっておけば幾日でも同じことをしているに違いな
    い。側近が夜中に平洲を呼びに人をやった。平洲にしてみれば若い二人が意地を張
    り合っているのがおかしかったろう。

    治憲には

    「過ちてあらたむるにはばかる事なかれと申します。ご反省はもう十分でございま
    しょう」

    と許しを与え、佐藤には

    「これ、文四郎、師の私がお見限り申さぬお屋形様を、弟子のお前が見限ったとは
    何事か」

    と怒鳴りつけておさまったのだった。
16.冷や飯組登用
  •  高校1年生で名門上杉家の家督を相続し、破綻に瀕した米沢藩の立てなおしに立
    ち向かうことになった治憲。本書を読むと、こんなことが本当に起こりえたのか
    と、信じられない思いである。農民を年貢を搾り取る道具としかみなさない時代
    に、このような封建領主がいたということがまず、奇跡的である。領主一人が善政
    を敷こうと思ったとしてもそんな考えについていく家来がいたことも奇跡的であ
    る。だが、何よりも信じがたいのはこの年齢である。

     歴史上に名君とか名宰相といわれる人物は多い。だが、どれほど非凡な人物で
    あったとしても、この年齢でひとつの地方をよく治めえた人物がほかにいただろう
    か?否、ひとつの地方どころか、従業員数百人以上の規模の会社の経営といえど
    も、この年齢ではほとんど不可能というべきであろう。政治には若者にはおよそ似
    つかわしくない、かけひきとか粘り強さが必要である。そして若者の特権は多少の
    過ちは許されるということである。歴史上の大人物が若いころにいくつかの「若気
    の至り」を起こした例はたいがいの伝記にむしろ好意的に描かれるものである。と
    ころが治憲が相続した米沢藩は少しの失敗も許されない状態であった。

     そして治憲はこのほとんど不可能と思われる事業を見事にやり遂げたのである。
    本書を読むとき治憲の老成というべき態度にしばしば驚かされる。わずかに高校生
    らしいのは本書の巻末に写真が出ている今も残る治憲の誓詞である。さすがにこの
    字は老成というより、高校生の競書大会で見かけるようなむしろ幼さの残る筆跡で
    ある。

     青年藩主が藩政改革に乗り出すとき、まず協力者を捜さなくてはならない。金次
    郎の場合もそうであったが、改革をするということはまず改革に当たるものが自分
    を変えなくてはいけない。自分の生き方を変えるということはかなりの勇気のいる
    ことである。藩主といえども一声かければ藩士全員が思い通りに動くわけではな
    い。

     治憲はどこに協力者を見出したろうか?治憲は藩内で仲間はずれにされている
    人間に目をつけた。逆転の発想というべきかも知れないが、人材登用に当たって実
    に優れた着眼である。凡庸な人物ならばそもそも仲間から村八分にされたりしな
    い。現在の藩政に不満があり、一家言持っていて、上司に従わないだけの勇気のあ
    る人物だから村八分にされているのである。

     天木直人著「さらば外務省!」(講談社)には現代の官僚組織のさまざまな村八
    分の実例が描かれている。国民のための正義を貫くよりも、とにかく上司に気に入
    られ、官僚組織で村八分にあわないよう無難に生きていこうとする官僚が養成され
    る道理である。今も昔も官僚の実体はこんなものなのだろう。

     治憲は腹心の佐藤文四郎を呼んで、江戸藩邸で孤立している者の名を書き出すよ
    う命じた。

    「そのような名簿を何にお使いになるのですか」

    佐藤は疑惑の色を顔に出して聞き返した。

     要するに、これは藩内の要注意人物のリストである。左遷か処罰に使われると思
    うのが普通である。そんな密告みたいな真似は佐藤にはできない。治憲は微笑して
    説明した。

    「米沢藩は藩政を返上するか、自滅するかの境目まで来た。しかし、私は今藩政改
    革を行おうという強い気持ちを持っている。が、一人では何もできない。手伝って
    くれる者が要る。しかし、その協力者は、何ごとにつけ、米沢本国にいる重職の顔
    色をうかがう者ではだめだ。そこで、私は、この江戸藩邸の中で他と折り合いの悪
    いものに目をつけたい。それぞれなぜ折り合いが悪いのかを知りたい。案外、私の
    求めている人間がその中にいるかもしれない」

     佐藤は笑った。

    「つまり、癖のある人間で、本国の重職たちから嫌われている者を書き出せばいい
    わけですね」

    「そうだ」

    「そういう人間ならたくさんいます。私なんかその代表です」

     こうして登用されることになった冷や飯組は、いわば米沢藩の正義派といってい
    い。彼らは藩に巣くう社会悪に怒りをもち、相手かまわず直言するため重役たちに
    嫌われて閑職に追いやられたが、それぞれに学問・民政・農政の知識と技術を持っ
    ていた。
17.藩民のための改革
  •  改革の政策立案の中枢として、治憲は冷や飯組から竹俣当綱(たけのまたまさつ
    な)、莅戸善政(のぞきよしまさ)、藁科松柏、木村高広それに近習の佐藤文四郎
    を任命した。竹俣は農政の専門家であり、江戸家老を務めたこともある。彼をこの
    プロジェクトチームの中心に据えた。そして全体の監修に現江戸家老の色部照長を
    任命した。藩政を改革するといっても、古い人材を一掃して新しい人材ばかりで行
    うことはできない。古い考えの人間を変えることができなくては改革は成功しな
    い。そのためには形式に配慮することも必要である。同じことを命じられるので
    も、自分より格下だと思っていた冷や飯組から命じられるのと、もとから従ってい
    た色部から命じられるのとでは藩士の受け止め方も異なる。若さゆえのがむしゃら
    さで突っ走るのではなく、理屈で改革の必要性を理解しても感情的に冷や飯組の下
    で働くことに抵抗が強いことを予測し、抵抗を和らげる布石を打っておいたのであ
    る。まるで人情の機微に通じた人生経験豊かな藩主の采配のようである。

     治憲は冷や飯組にこう言った。

    「おまえたちが、それぞれの胸の中に、藩の現状に対して怒りや悲しみをもってい
    ることはよくわかる。その怒りや悲しみが決して私欲に基づくものでないこともよ
    くわかる。そこでおまえたちに命ずる。おまえたちで財政再建のための藩政改革案
    を作れ。それぞれの怒りや悲しみを、改革案にたたきつけよ。ひとつひとつの案の
    底にしっかり据えよ。しかしその目的はただひとつである。藩内の身体障害者・病
    人・老人・妊婦・子供など社会的に弱い立場にある者たちをいたわる政治を実現し
    たい。つまり、米沢藩の藩政改革は民を富ませることにある。藩政府が富むことで
    はない。そういう藩政改革案を作れ。そしてその案を二年間この江戸藩邸で実験し
    てみよう。実験の過程で、悪いところは直し、よいところは残そう。そして、改革
    案を練り固めて本国で実施しよう。しかし、ひとつ条件がある。

     おまえたちは国許の人間から、すべて色目で見られている。もちろん人は何を
    言っているかを大切にすべきであって誰が言っているかは問題ではない。しかし、
    人は悲しいものだ。必ずしも理屈どおりには行かない。やはり誰が言っているかに
    よって左右される。そこで頼みがある。おまえたちも少し自分を変えてほしい。貼
    られた色目の紙を片隅でもいいから自分ではがせ。つまり自分を変えてほしいの
    だ。そうすることによって、かたくなな本国の連中もお前たちに対する見方を変え
    るだろう。見方が変われば、おまえたちがこれから作る案が生きる。今のままで
    は、おそらくおまえたちがどんなによい案を作っても、本国人はそっぽを向いてし
    まうだろう。藩を変えるためには藩人が変わらなくてはならない。その藩人の中に
    はお前たちも入る。もちろん私も自分を変えていく。自己変革は藩の変革のために
    まず成し遂げなくてはならない藩人の義務なのだ。この点よくわかってほしい。」

     この治憲のことばをきいて木村高広は心中ひそかに

    (悪いのはわれわれではなくて、本国の人間だ。まず本国の人間が自分を変えなけ
    れば、おれたちがいくら変えてみたってどうにもならない)

    と思った。その木村の気持ちは敏感に治憲に伝わった。治憲の人を見る目は若者と
    は思えないほど正確である。陰謀渦巻く政治の世界で長く指導者としての地位を保
    つには、人材登用の才能と、表情から相手の内心を見抜く能力が欠かせない。治憲
    のこの方面の才能は真に驚嘆すべきものである。

     治憲は続けた。

    「おまえたちの中には、すべて悪いのは本国人であって、自分たちは少しも悪くな
    い、と思う人間もおろう。しかし、それはこらえてほしい。それにこだわると何ご
    とも前に進まない。そしてそれにこだわることは、誰か大切な人を忘れていること
    になる。すなわち年貢を納める人々のことだ。われらの生活の資を生み出す人々の
    ことである。そういう人々の存在を忘れて、私たちが私たちの考えだけで争うこと
    は、何の意味もない。だからまず気づいたほうから自分を改めるよりほかに方法が
    ないのだ。つらいことはよくわかる。しかしこらえてほしい。江戸のほうから自分
    たちを変えて本国に乗り込んで行こうではないか。」

     先制攻撃を受けた木村は驚くと同時に、若い殿様がなかなか侮れないと知っ
    た。(若いくせに良く人の心を見抜く。案外大物かもしれない)と、治憲を見直し
    たのだった。
18.改革案
  •  120万石だった上杉家を15万石に見合うように改革しなくてはならないの
    である。青年藩主に課せられた責任は重く、その困難は想像を絶するものであった
    ろう。藩の重臣たちがまず強力な抵抗勢力になるだろう。若者らしい激情は非常に
    危険である。

     彼は自分のなすべき事を次のように整理した。
    1.窮迫の実態を正確につかむ。=基礎データ収集
    2.その実態を全藩士に知らせる。=情報公開
    3.実態克服のための目標をしっかり掲げる。=目標設定
    4.目標実現のために全藩士の協力を要請すること。=住民参加
    =以下は私が現代風に言いなおしたものだが、安定成長時代の国家運営のための改
    革の方策も、まさに高校1年生の治憲の脳裏に浮かんだこの4項目に尽きるのでは
    なかろうか。

     改革のプロジェクトチームはよく働いた。自宅にも帰らず、藩邸の一室にこもっ
    て仕事に励んだ。仕事は基礎データを収集し、削れるところは徹底して削ることで
    ある。ただし、「削れるところ」とは「削りやすいところ」という意味ではなく、
    「社会的に弱い立場にある者たちをいたわる」という観点で削っていかなくてはな
    らない。

     そして、できた改革案は大略、
    宗教的行事や年間の祝い事などはすべて中止か延期
    贈答の習慣は禁止
    建物などの修理は公務などでよく使うもの以外は認めない
    衣類は木綿
    食事は一汁一菜、ただし歳暮だけは一汁二菜を認める
    50人いる奥女中は9人に減らす
    というものだった。

     何だ、数ヶ月かけてこれだけかというなかれ。当時の武士は虚礼の中に生きてい
    たのである。身分に見合った外見の着物を着て、家格に見合った形式の行事をとり
    行うことは武士の意地にかけてやらなくてはいけないことなのである。

     これだけのことにも一騒動覚悟しなくてはならない。治憲は断じて行うという決
    意を込めて米沢の白子神社にこの案とともに誓詞を納めた。明和4年(1767
    年)9月13日付のこの誓詞はそれから125年後の明治24年8月にはじめてそ
    の存在が知られた。江戸家老色部照長にも誓詞を出させた。

     治憲が迷信深かったのではない。抵抗勢力に腰砕けになると見込まれる色部に肚
    を決めさせるためである。おそるべき17歳というべきでろう。
19.所信表明
  •  明和4年旧暦9月18日、治憲は江戸藩邸に勤める藩士全員を集めて所信表明を
    した。家督相続から5ヵ月後である。治憲は7月生まれだから、満年齢で言うと1
    6歳になったが、治憲より年下で出仕している藩士はまずいないという意味で若造
    であることに変わりはない。

     財政窮迫の実情を説明し、上杉家をつぶして幕府に領地を返上せよとの意見すら
    あることを告げ、お家をつぶす前に死ぬ気で財政建て直しにかけてみようと訴え
    た。

     藩士は面食らった。今までの歴代藩主は贅沢のしほうだいで、まわりが金がなく
    なってはらはらしても

    「まかせておけ」

    というばかりだった。大丈夫なのか?とみんな心配したが、やはり大丈夫ではな
    かった。藩財政がどうしようもないことは藩士にも隠し切れない。みんな、いつお
    家がつぶれるか知れないから、今のうちに贅沢をしておけという破れかぶれの気分
    になっている。おどろいたことに、この若殿様は現状を正直に認め、藩士の協力を
    要請したのだ。

     いったんことばを切って治憲は藩士の顔を見渡した。「よくぞいってくれた」と
    感動しているもの、「また給料を減らす気か」と警戒するもの、「今までだって危
    機だ危機だと言ってきたけど、何とか藩は続いてきたじゃないか。今度もただの脅
    しだろう」と本気にしないもの、「どれほど藩が困っていようと、それを何とか立
    て直すのが藩主の責任だろう。それを藩士に協力要請など、泣きつくとはだらしな
    い殿様だ」とあざけりの表情を浮かべるもの、さまざまであった。

     それらを見ながら治憲は米沢本国の前にまず江戸の連中を説得し協力させるのも
    容易ではないと見て取った。しかし、賽は投げられたのだ。ここで引くわけには行
    かない。策定した改革の具体案を読み上げた。聞いた藩士群は騒然となった。改革
    案の要点は虚礼廃止である。これは虚礼で構築されている武家社会に対する挑戦で
    ある。しかも、先祖に当たる幕府の礼儀指南役吉良家の方針にも反することにな
    る。

     どよめく家臣群を鎮めるように治憲は声を大きくして自製の歌を詠んだ。

    うけつぎて 国の司の身となれば

     忘るまじきは 民の父母

     藩主就任と同時に詠んだ歌である。これが彼の藩主としての姿勢であると同時
    に改革の目標であった。国の司となれば民の父母であることを決して忘れてはいけ
    ないという決意とは、要するに藩政改革の目標を「領民を富ませる」ことにおき、
    その方法展開を「愛と信頼」で行おうとしたということである。

     家臣に倹約を要請するからには治憲自身の倹約がなくては人は従わない。治憲は
    自分の生活費を1500両から200両に減らすと表明した。自分の給料引き上げ
    を計画し、趣味のオペラ見物のために公費で大名旅行をする小泉総理とはえらい違
    いである。

     武家社会の形式に逆らい、祖霊を軽んじるとなると、若い養子藩主は廃嫡される
    危険もあるとの懸念の声には

    「それも覚悟している。しかし、この際はっきり言っておく。この治憲を米沢藩主
    の座から追うか追わぬかは米沢藩の家臣にその資格があるのではない。私が藩主と
    して適当でないと裁けるのは、米沢藩の領民だけである。年貢を納めるもののみが
    その資格を持つ」

    と答えた。

     一同唖然とした。現代で言う主権在民の思想である。

     アメリカ独立宣言の9年前、フランス大革命勃発の22年前である。もちろんこ
    んなことを公言する大名など日本中に一人もいない。
20.勇なるかな
  •  大名の参勤交代は1年おきである。家督相続の年は先代が米沢にいたようだか
    ら、米沢勤務に勘定されたのかもしれない。翌年は江戸で改革案を実験し、手直し
    もした。現場の声を重視し、改革案の手直しをしていくのは治憲の一貫した手法で
    ある。経済政策を学者大臣に丸投げし、机上の空論に固執して事態を悪化させ続け
    る小泉政権は、政策の点で国民への愛情を基礎とする治憲のそれと異なって誤って
    いるばかりでなく、手法の点でも現場無視修正不能という点で成功した治憲の手法
    とはまったく異なっているわけである。

    いよいよ明和6年10月、治憲は初めてお国入りをすることになった。

     江戸にいた間、治憲は藩主になってからも、折に触れて細井平洲にさまざまな相
    談をすることができたはずである。青年藩主がこれだけのことをするには当然なが
    ら、当代随一の知恵者がついていなくてはならない。もちろん米沢に行っても手紙
    のやり取りはできたはずだが、心細さは相当違う。2年半江戸藩邸で改革の実験が
    できたことは、藩主になり立てで国許の重臣と対決する不利に比べると、この猶予
    は決定的な意味を持つ貴重なものだったはずである。臨床経験ゼロの医師免許取立
    ての医師と、初期研修2年終了後の医師との差は、同じ2年といっても経験年数1
    0年すぎてからの2年とは比べものにならない重要性がある。数え17歳と、19
    歳は身体的成長の面でもかなり異なる。現代でも満18歳になればパチンコ店にも
    いけるし、刑法などもほぼ大人の扱いになる。

     それでも治憲は、この初めてのお国入りに当たって、平洲と別れるのが相当不安
    だったようで、平洲にそのことを訴えた。

     平洲は、「藩主となるあなたに、大事であると思うこと、お手本にしたほうがよ
    いと思うことはすべて教えました。あなたは、これからは、現実の政治を行ってい
    かなければなりません。藩の人々の暮らしを豊かにしていくためには、まず自らが
    身を正しく修めて、絶えず努力して、自分の信じるところを貫いていかなければな
    りません。こうしたことは、勇気のある者だけができるのです。勇気ですよ、勇気
    なくして、どうして政治ができるでしょうか(勇なるかな勇なるかな、勇にあらず
    して何をもって行なわんや)。いよいよそのときが、やってきたのです」と話した
    という。

     治憲は、この言葉を帯に書いて肌身につけて忘れないようにした。
21.板谷峠
  •  治憲は福島から板谷峠を越える道をとった。旧十月末は新暦の12月中旬ぐらい
    である。国境の峠の雪は深かったはずである。

     上杉家が参勤交代するときの大名行列はそれまでは千人近い供の者がついた。先
    頭に鉄砲隊を立て地響きをとどろかせて行進するさまは街道筋でも有名で、大坂の
    陣から百五十年もたっているというのに、まるで戦国時代の出陣であった。今回の
    お国入りではこれを一切廃止した。供の数もこれまでは臨時雇いを入れて千人の体
    裁を整えていたが、改革の軸となってくれると期待できる家臣数十人に絞った。全
    員木綿の服である。

     しかし、板谷宿は廃墟同然になっていた。接待役番頭(ばんがしら)の北沢五郎
    兵衛は頭をかかえた。彼が接待役を任命されたのは昨日のことである。米・味噌・
    酒などはふもとの米沢から用意してきたが、宿場に人がほとんどいない。わずかに
    残った人間に聞くと年貢が高くて暮らしていけないという。当時農民の逃散(ちょ
    うさん)は重罪である。しかし、とどまって死ぬよりはと禁を犯して他領に逃げて
    いくのである。今の北朝鮮の脱北者みたいなものである。逃げていくときには国境
    の宿場に押し入って金や家財をみな盗んでいった。逃散者は一人二人でなく、十
    人、二十人と群れをなしているので、かなわない。もはや宿場には盗まれるような
    ものは何もないという。残っている住人も行くところがないから残っているだけ
    で、明日に何の希望もあるわけではない。

     とにかく今夜お屋形様の泊まるところがない。残っている家も畳は破れ、壁は落
    ち、障子など形をとどめていない。ここまで朽ちているということはもう藩民の逃
    亡も自由だということだ。国境役人も任務を放棄してしまっているのだ。

     北沢自身藩役人の一人として、宿場がここまで荒れていることを知らずにいた責
    任を感じないわけにはいかなかったが、藩庁の人間が一人も知らなかったはずはな
    い。北沢の国境出迎え役の任命は明らかに意図的なものだ。彼は改革派の藁科松柏
    の弟子だったことがある。藁科松柏は治憲の初のお国入りの直前、以前から患って
    いた肺病が悪化して亡くなったが、若い治憲が改革などというくだらない考えに染
    まったのは藁科松柏が陰で糸を引いているというのは米沢本国ではもっぱらのうわ
    さである。「君側の奸」に組みした輩を失脚させてやろうという意図である。

     うかつだった。人間というのはいつどこで何が起こるかわからない、起こった
    ときにじたばたしないのが侍だと小さいころから叩き込まれている。北沢は覚悟を
    決めた。(お屋形様を米沢までご案内したら、腹を切ろう)

     宿場に一行が入ってきた。宿が準備していないと聞いて供のものがいきり立っ
    た。城の重役の嫌がらせかと詰め寄る者もいた。しかし、北沢はもはや覚悟を決め
    ている。すべて罪をかぶって死ぬ気である。「面目ございません」「まことになん
    とも申し訳なく・・・」と繰り返すばかり。

     「もうよい、それ以上北沢を責めるな」治憲が声をあげた。

    「北沢、みんなで野宿をしよう。宿場の窮状はよくわかった。泊まれば住民は更に
    困窮する。今夜は私も野宿をする。焚き火をさせよ。焚き火を囲んで語り明かそ
    う。酒はあるか」

    「ございます。酒だけはふんだんに」思わず北沢は声を弾ませた。

     北沢は初めて見た藩主治憲にこれまで見たどこの藩主とも違うという感じを受け
    た。明日腹を切る覚悟は決まったが、これまでは藩庁の連中にわなにはめられたと
    いう悔しさがあった。しかし、治憲と会ってこのお屋形様のためなら腹を切っても
    悔いはないという気持ちに変わった。本当にこの主君のために宿を準備できなかっ
    た罪を償う気になっていた。

     治憲がその北沢に声をかけた。

    「出迎えご苦労であった。さ、私に酌をさせてくれ」

    出迎えの家臣一人一人に茶碗を持たせて酒を注ぎ始めた。

    「さあ、明日は元気に案内してくれよ」

    明るくそういう治憲は去りがけに北沢を呼んだ。

     焚き火と焚き火の間、大声を出さなければ人に聞かれる心配のないところであ
    る。治憲の脇に立った佐藤文四郎が告げた。

    「よもや、そんなことは考えていらっしゃらないでしょうが、この宿場でのお迎え
    の件につき、切腹など絶対にまかりならぬと、これはお屋形様の君命です」

     北沢は治憲に命を救われたと感じた。これからは死んだ気で治憲のために尽くす
    と心に誓った。ここでも治憲の人並みはずれた読心の才が現れている。治憲は初め
    て出会った北沢の心をしっかりとつかみ、治憲のためには命も要らない部下をまた
    一人獲得したのだった。
22.幸姫
  •  治憲の人の心を見抜く目は驚嘆すべきものだが、どうやってこの能力を磨いたの
    か、本書では触れられていない。

     なるほど、世の中には勘の鋭い人はいる。明治天皇も乃木将軍が旅順攻略の報告
    をしたとき、乃木としては膨大な戦死者を出した責任を取って、報告後自決するつ
    もりであったが、明治天皇が乃木と二人きりになったときに「乃木よ、死んではな
    らぬぞ」と声をかけたという話が、まことしやかに伝わっている。明治天皇崩御の
    あと乃木が殉死したときの心中も、この話が本当だとすると、確かによくわかる。

     しかし、この話が本当だとしても、このとき明治天皇は50代。乃木の報告の二
    百三高地攻めのくだりは文字通り涕涙(ているい)ともに下る状態で傍目にもその
    異常さが際立っていたという。無事治憲を米沢城下に案内するまでは切腹のことな
    ど毛ほども悟らせまいと決意していた北沢の心中を数え19歳で見抜いた治憲の能
    力は尋常なものではない。

     たぶん治憲は天性、優しくて人の心を思いやる人物だったのだろう。だがそれだ
    けだろうか?

     このなぞを解く鍵は治憲の妻、幸姫(よしひめ)にあるのではないかと私は思
    う。幸姫は先代藩主重定の長女である。幸姫との婚儀は家督相続のための条件であ
    る。幸姫は生まれつきの障害者だった。現代で言うと脳性まひではなかったろうか
    ?身体の運動も不自由であり、ことばも不自由だったという。婚儀は名目上だけの
    ことである。

     家臣は結婚直後から側室を持つよう進言したが、治憲は江戸藩邸にいる間これを
    拒否した。治憲は幸姫とよく遊んだ。おそらく許婚(いいなずけ)であった幼いこ
    ろからよく遊んだのだろう。ことばの不自由な幸姫と遊ぶ中で、もともと鋭かった
    相手の表情を読む能力が鍛えられたのではないだろうか?

     幸姫お付きの女中は治憲の優しさに涙ぐむほどだったというが、おそらく治憲自
    身も楽しかったのだろう。身体障害者施設に勤める職員は非常に働き甲斐があると
    いう人が多い。養護学校の教員の私の知り合いは、施設の子供たちは本当にかわい
    いという。それは、自分に全面的に頼りきっている施設の子供を相手にするほう
    が、不良のたむろする高校で、ひたいにソリコミなんか入れた教え子相手にしてい
    るよりも、よほど楽しいに決まっている。合格率を上げろと尻をたたかれる心配も
    ない。皇族がいろいろな施設を訪問する様子が報道されるときがあるが、ぜんぜん
    興味もわかないような原子力施設とかで、こむずかしい説明を聞かされている表情
    に比べると、身体障害者施設を訪れたときの心からの笑顔との落差に気づかされ
    る。

     若い治憲にさまざまな重圧のかかる中、治憲にとっては、自分に全幅の信頼を寄
    せて全身で治憲の来訪の喜びを表現する障害者の妻と、他愛のないままごと遊びや
    人形遊びをするひと時が心から安らげる時間であったのかもしれない。

     治憲の学問の師細井平洲は江戸時代を通じて第一級の学者といっていい。それに
    対して幸姫は知力体力とも常人よりはるかに劣っていたが治憲に君主として最も大
    切な仁愛の心を教えたのである。治憲の頭脳を鍛えたのが平洲とすれば、治憲の
    ハートは幸姫によって磨かれたと言っていいのではなかろうか。
23.改革の火種
  •  板谷峠を下って米沢の盆地に入ってもあたりの光景は荒れ果てた板谷宿と変わら
    なかった。土地は痩せ、荒れ果てているのが雪に覆われていてもはっきりとわかっ
    た。藩民の目にも生気がない。治憲の駕籠を見れば百姓も町人もみな道の端に土下
    座したが、駕籠の中から見るその目は死んでいた。

    藩民は今度の藩主は厳しい改革を企図していると聞かされている。それは厳しい増
    税という意味にしか取れない。つまり治憲は疫病神だと思われている。それでもこ
    れ以上絞りようがないと思っているから、やけくそでふてくされているのである。

    駕籠の中に煙草盆があった。灰皿の灰は冷たく冷えていた。治憲にはこの冷え切っ
    た灰が米沢の国を象徴しているように思えた。

    「この死んだ灰と同じ米沢の国に、何かの種をまいてもいったい育つだろうか。大
    変な国に来てしまった。年若く、何も知らず、経験もなく、この国で富民のための
    藩政改革をするなどというのは無茶な考えだった。どうせすぐ尻尾を巻いて遠い日
    向の国に帰らざるを得なくなるに決まっている。」

    そういう悔恨の情が突き上げてくるのだった。

     何の気なしに冷たい灰の中を煙管でかき回してみた。灰の中に小さな残り火が
    あった。治憲は駕籠の中の炭箱から新しい炭を取り出して煙管を火吹き竹がわりに
    してふうふう吹き始めた。

     それに気づいた家臣が寒がっているのかと思って新しい火を持ってこようと気を
    つかった。治憲はそれを制して夢中で吹き続けた。やがて駕籠を止めさせて治憲は
    道に降り立った。

    「みなの者、聞いてくれ。沿道の光景を見て正直私は絶望した。それはこの国が何
    もかも死んでいたからだ。この灰と同じようにである。江戸でお前たちに改革案を
    作らせたが、それを受け入れる国のほうが死んでいた。深い絶望感に襲われしばら
    く灰を見つめていた。すると小さな残り火が見つかった。私はこれだと思った。こ
    れを火種にして新しい火をおこすのだ。その新しい火はさらに火をおこす。その繰
    り返しがこの国でもできないだろうか。そう思ったのだ。私はそう思って、今、駕
    籠の中で一生懸命この小さな火を吹き続けた。すると実にうれしいことに火はよみ
    がえったのだ。その火種は誰あろう。まずお前たちだ。お前たちは火種になる。そ
    して多くの新しい炭に火をつけるのだ。その火がきっと改革の火を大きく燃え立た
    せるであろう。」

     家臣の多くは感動した。一人一人がその種火から火を移して持ち帰って改革が達
    成される日まで決してこの火を絶やさないと誓い合った。

     この火種は治憲の改革のシンボルとなり、どんどん新しい炭に移されて、改革の
    進展とともに米沢の隅々までいきわたることになる。
24.三助(さんじょ)
  •  不退転の決意を胸に米沢に乗り込んだ治憲だが、改革案を行うにはまず藩士の協
    力がなくてはいけない。封建時代とはいえ、「君命である」との一言ですべてがス
    ムーズに行くものではない。もし強権を徹底的に発動すればお家騒動となるかも知
    れず、そんなことになったら藩政改革の前に米沢藩が取り潰しにされてしまう。

     北朝鮮や、旧ソ連を思い浮かべればいいと思うが、強権で人を働かせることがで
    きるのはせいぜい単純労働だけである。世の中の進歩というものは現場の創意工夫
    から生まれる。現場監督の考えを超えることを許されない社会は進歩することがで
    きない。支配者の強制でいやいやながら働くような社会を治憲は望まなかった。治
    憲は藩士に命令をくだしたのではなく、協力を要請した。

     まず治憲は全藩士を大広間に集めた。重役から足軽まで総ざらいである。上杉家
    始まって以来のことである。

     一般の藩士も足軽との同席に眉をひそめるものが多かった。足軽のほうも城の外
    で出会えば道の端で土下座しなくてはならない上士と同席させられるのは迷惑な話
    だった。治憲は一同を見渡してすぐ藩士の目が一様に死んでいるのを感じた。若い
    藩主に期待する色はどこにもない。

     江戸から幾日もかけて、雪の峠を越えて、遠い道をやってきた治憲の意気込みは
    急速にしぼんだ。しかし、ここでひるむわけにはいかない。帯に書いて肌身につけ
    ている平洲のことば「勇なるかな」を思い起こした。

     全藩士の前で治憲が告げたことを要約すると以下のようになる。

    1.藩財政窮迫の実態表明。

    2.目標は富民におく。

    3.目標達成のための手法として討論を活発にする。

     討論でよい意見と認められた現場の意見はかならず藩主の手元まで上がってくる
    ように。

     藩主や重役たちの考えは必ず末端まで行き届くよう勤める。

     特に老人・子供・妊婦など社会的弱者を保護することを掲げたが、いきなりすべ
    て藩財政で行うことはできない。治憲は三助という具体策を出した。すなわち

    1.自ら助ける=自助

    2.互いに近隣社会が助ける=互助

    3.藩政府が手を伸ばす=扶助

    の三位一体のことである。

     金次郎も荒廃した農村の建て直しのとき、金銭的援助はむしろ中止せよといっ
    た。農民の中に潜む徳を引き出すように、働こうとする意欲が出るように援助しな
    くてはならないと語った。現在の政府が海外支援といい、失業者対策といい、高齢
    者対策というとき、どうしてすべて金銭的援助が主体となるのだろうか?今のやり
    方では働かないほうが援助がもらえて得だということになる。終戦直後の困難な時
    代、日本人は米、味噌、醤油、日用品のほとんどを近隣で貸し借りしてしのいだ。
    鷹山や金次郎の相互扶助の精神が明治以降日本に広まっていたのである。物があふ
    れ財政の豊かな時代にこの美風は廃れた。財政逼迫の今、この方策はもう一度見直
    されるべきである。

     そして、九州の小藩の生まれで米沢の実情をよく知らず、若年で経験不足の自分
    は、みんなを統制統御するには力不足であることを率直に認め、これらの方策実現
    のために全藩士の協力を要請した。
25.見れども見えず
  •  しかし、当然といえば当然ながら、よしやろうという声は起こらなかった。重役
    たちも「お手並み拝見」を決め込んで一指だに動かそうとしない。重役たちなど、
    はじめから治憲を見下した態度である。なめきっている。

     人間はその発言の内容がよいか悪いかではなく、誰が言っているかで判断するも
    のである。日本医師会の坪井会長の「わが医療革命論」(東洋経済新報社)など、
    決して医師だけのことを考えての主張ではなく、高齢化社会を迎える国民全体のた
    めに、限られた財政の中で最善の医療を提供するにはどうするか、すばらしい提言
    である。しかし、日本医師会の主張であるというだけで顧みられることがない。

    現代の私たちなら鷹山が古今に並ぶものなき名君であることを知っている。米沢の
    人なら神様と思っている。しかし、このときの治憲は何の実績もない無名の若造に
    過ぎない。

     重臣のうちでも色部だけは江戸藩邸で治憲とかなり接している。彼は治憲がただ
    の世間知らずの若者ではないことを実感していた。自分に逆らうようなことを言わ
    れても決して逆上しない分別、どんなときにも微笑を絶やさない冷静さはそこらの
    わがまま若殿とはまったく異なる。非常に老成した威厳を感じてしまうのだ。他の
    重臣たちの前で治憲をかばうと「色部殿もすでに篭絡されたか」などと馬鹿にされ
    るだけなので口をつぐんでしまうが、治憲をただの尻の青い若者藩主で、ちょっと
    脅しつければ、すぐに尻尾を巻いて引っ込むことになるなどと高をくくっていてい
    いのか不安だった。「人間ならば誰にでも、すべてが見えるわけではない。多くの
    人は、自分が見たいと欲することしか見ていない」とは、古代ローマ帝国のカエサ
    ルの言葉だが、色部以外の重臣ははじめから治憲の言うことに耳を貸さなかった
    し、治憲と視線を合わせようともしなかった。19歳の若造がここまで米沢のしき
    たりを守ってきた自分たちに逆らっているというだけで、自分たちが冷や飯を食わ
    せた連中が世間知らずの藩主を抱きこんで報復しようとしているとしか判断力がは
    たらかないのである。藩主に徹底的に従わないとすれば謀反である。自分の命のか
    かった戦いになるというのに、敵を知ることも己れを知ることも一切やろうとせ
    ず、根拠のない勝利の確信を抱く、こういう人種の系列に対米戦争を引き起こした
    軍国主義者が位置するのだろう。
26.初めての視察
  •  年が明け、平野部の雪が解け始めるとすぐ治憲は佐藤文四郎だけを連れて領内の
    視察に出かけた。いわゆる「お忍び」である。ところが治憲の視察日程はことごと
    く事前に漏れていた。行く先々の村では村役人が美麗な服装で出迎え、農民たちも
    集められ、また休憩所にはごちそうが準備されていた。出迎えの役人、農民たちは
    明らかに治憲の視察を迷惑がっていた。実態を知ろうとしてもこれではどうにもな
    らない。農民に本当のことを話してもらいたくても、あらかじめ役人たちからこう
    聞かれたらこう答えろと言い含められた答えばかりであった。考えられるのは側近
    たちのうちに秘密の行動日程を漏らす人間がいるということである。それが誰かは
    わからなかった。

     形式的な視察でなんら得るところなく治憲主従が去ったのを見届けると、村々は
    歓声を上げた。藩役人と村役人は治憲が手をつけなかったごちそうを食べ、酒を飲
    んだ。村人もおすそ分けに預かった。そして口々に治憲の悪口を言った。

    「これ以上年貢をとろうったってそうはさせねえ」

    「まだほんのガキじゃねえか」

    「木綿を着ろ、一汁一菜にしろといったって、自分はどうなんだ?今日は確かに木
    綿だったが、城に帰ればどうだかわかったもんじゃねえ。お屋形様がそんな暮らし
    をするわけがねえんだ。口先だけさ」

     事前に治憲についての宣伝がよく行き渡っていたからだ。

    「今度のお屋形様は遠い九州の小さな大名のせがれで、もともと上杉家のような大
    藩の養子になるような人じゃない。それが上杉家を継いだものだから、生まれつき
    の卑しい根性が現れて、成金根性よろしく百姓から今の何倍も年貢をしぼりあげて
    ぜいたくをする気だ」

    ということになっている。もちろん、治憲に悪意を抱く重臣たちの悪口がそのまま
    流れている。いったん植え付けられた不信を信頼に変えるのは並みたいていのこと
    ではない。マスコミで垂れ流される医療不信をくつがえすのが容易でないのと同じ
    である。

     雪解けの道をとぼとぼと馬で歩き回り、村につくたびに偽の報告を受け、コケに
    されて去っていく主従はものわらいの種として評判になった。それはきっと藩とい
    う権力に対する長年のうっぷん晴らしであったろう。医者たたきの報道を喜ぶ心理
    と同じだろう。

     しかし、治憲は視察を無駄にしなかった。見ようとしない人間には何も見えない
    としても、雲の動きや水の流れからも学ぼうとする金次郎には自然が教師となって
    くれた。治憲もまたどんなところからも学ぼうとする格物致知の実践者だった。

     治憲は、米沢藩初代景勝の家来で景勝が会津から減封されて米沢にやってくる前
    の米沢藩主だった直江兼続(かねつぐ)の「四季農戒書」を廻村の間中携えてい
    た。そしてほとんど首っ引きで、視てきた土地と直江の説くところを照合した。そ
    して、直江の説は治憲視察の当時にもかなり活用できることを確かめた。
27.他山の石
  •  視察から戻った治憲は米沢という器から離れてよその例を参考にしようと思っ
    た。今までの幕府や他藩の藩政改革をつぶさに調べて、それらが成功したならばな
    ぜ成功したのか、失敗したならなぜ失敗したのかを分析するよう竹俣ら腹心に命じ
    た。

     彼らはこういう作業に慣れていた。ほどなく報告ができた。

    失敗の原因

    1. 改革の目的がよくわからないこと

    2. しかも、その推進者が一部の人間に限られたこと

    3. 改革を行う政庁員全員にすら改革の趣旨が徹底していなかったこと

    4. したがって当然領民にも改革の目的や方法が知らされず、一方的に
    押し付けられたこと

    5. 改革によって少しでも財政が好転すれば当然領民の負担が軽く
    ならなければならないのに逆に増税したこと

    6. 改革される側の痛みに深い同情と理解を示さなかったこと

     小泉改革についての分析ではない。二百年以上昔に真剣に改革に取り組んだプロ
    ジェクトチームによる失敗した改革についての分析結果である。本書が最初に発表
    されたのも1993年で、2001年の自民党総裁選で小泉氏が総裁に選出される
    より8年前である。しかしながら5以外の項目はすべて小泉改革そのものを言い表
    しているかのようである。5についても総理は自分の任期中はやらないといってい
    るが、彼の路線は増税の方向に向かっているのは明らかである。総理が本書の竹俣
    らの報告文を知っていて、緻密な計算の末にブッシュ大統領と談合の上で日本を破
    滅に導くために現政策を進めているのだとすればお見事というしかない。彼はこう
    すれば失敗するということをすべて実行しつつある。

     成功するためにはまず失敗しないことである。治憲は今までの改革が失敗したの
    は、すべて、藩士と領民に対する愛情の欠如だと思った。改革の対象となる人への
    愛といたわりを欠けば改革は決して成功しない。この考えを基礎にすえて治憲は自
    分の方針を固めた。
28.地場産業振興
  •  治憲は竹俣ら腹心だけでなく、他の重臣も集めて方針を語った。

    「今この国の税の体系はすべて米で組まれている。しかし、米沢をはじめとして東
    北の地は米作には適さなかった。農民たちはひどい苦労をして、本来米作に向かな
    い土地で米作りをしてきた。しかし、自然の条件には限界があって、米作が米沢の
    主要農産物になるのは無理だ。

     私の見たところ、この米沢では漆や楮(こうぞ=紙の原料)、桑、藍(あい)、
    紅花(べにばな)などが適しているように思われる。そこでどうだろう。米沢では
    これから、米作のほかに漆・楮・桑などを植えてその原料からいろいろなものをつ
    くろうではないか。漆からは漆器を作り、楮からは紙をすきだし、桑からは生糸を
    つむぎ、さらに絹織物まで作りたいのだ。」

    竹俣が言った。

    「今お話の出た植物はすでに米沢でも植えております」

    「確かに米沢でも植えている。私が言いたかったのは米沢の産品を輸入して他藩で
    はそれを原料にしてさらに別な産品を生んでいるということだ。たとえば越後の小
    千谷縮(おぢやちぢみ)、あのもとは米沢の苧(からむし)だ。さらに蚊帳、ある
    いは奈良の晒し、京阪における口紅や友禅染の染料も米沢の紅花がその原料であろ
    う」

    「ではお屋形は当米沢でも小千谷縮をつくると、こう仰せられるのですか?」

    「その通りだ」治憲は笑顔で答えた。

    「早く言えば、藩が先にたって儲かる商売を始めるということだ。が、これは藩庁
    が富むためではない。米沢の民を富ませるためだ。米沢の原料を他国に売るだけで
    はあまり益にはならぬ。米沢で製品にまで仕上げるのだ。土地の視察で気がついた
    が、草原がまだたくさんある。紅花がよく育ちそうだ。それと水だ。米沢には思い
    のほか小さな川や沼、池が多い。あそこで鯉を飼おう。金のある大名や商人が庭の
    池で楽しめるように美しい錦鯉を育てよう。まだある。領内の笹野観音の前を通り
    かかったとき、面白いものを見た。門前の店で店主が木を一刀で削って彫り物を
    作っていた。あれは売れるぞ。もっと大々的にやれ。笹野の一刀彫とでも名づけ
    よ」

    「問題が二つございます」農政の専門家の竹俣が疑問を挟んだ。

    「ひとつは今お話の出ました苧(からむし)その他を織物にするにしましても米沢
    には技術者がおりません」

    「ならば他領から技術者を招け。それも高い報酬でな。改革とはただ経費を切り詰
    めればよいというものではない。ことと次第によっては思い切って使うことが必要
    だ。」

    「わかりました。技術指導は他領から指導者を招聘することで解決できるかもしれ
    ません。しかし、お屋形が進めようとしている地場産業の振興策はすべて土をもと
    においております。そこでもうひとつの問題ですが、藩内の農民は今でも米作で手
    一杯です。この上漆を植えたり、植えた漆から塗料をとったり、あるいは楮から紙
    をすいたり、繭から絹糸をつむぎだしたりすることは到底不可能でございます」

    「農民だけを労働力と考えればそうなる」

    「ほかに労働力がございますか」

    「ある。この城の内外にある。まず、お前たちの家族だ。家族のなかでも老人と子
    供だ。老人や子供は鯉にえさをやり、育てることに興味を示すであろう。鯉を売っ
    て得た利益の中から、何がしかの配分をすれば老人子供も小遣いを得て喜ぶであろ
    う。また、織物を織ったり、生糸をつむぐには藩士の妻や母がいるではないか。武
    士の妻だからといって夫が城へ出仕したあと、なにごともなく家事に縛り付けてお
    くというのは得策でない。女たちにも仕事を受け持ってもらい、またそこで得た収
    入を配分すれば家計も潤う」

    重役たちは目をむいた。いやしくも武士の妻が糸をつむいだり、木を植えたりな
    ど、思いもよらないことである。国家老千坂高敦(ちさかたかあつ)が怒りに燃え
    る目で治憲をにらみつけて口を挟もうとした。戦国の遺風を伝える上杉家の国家老
    である。もう一度関が原の戦いが起こったら大将首の十や二十とって来るつもりで
    いる。並みの人間ならひとにらみで小便をちびってしまいそうな眼力である。しか
    し、治憲はさわやかな笑顔で受け流して竹俣に続けさせた。

    「お屋形様、土地がございません。米沢は山国、それほど多種多様の植物を大量に
    植えるには土地がございません」

    「土地もある。この城の中にはまだまだ余分な土地があるし、城下の藩士の家にし
    ても奥のほうは空いている。ここに桑を植えよう。それも重役五十本、中士三十
    本、下士十本というように割り当ててはどうだ?」

    「おそれながら」木村高広が口を挟んだ。「武士たるものが桑を植え、縮を織るま
    でしてはおよそ侍としての権威がなくなりませぬか」

    「木村、お前にしてまだそんなことを言うのか。およそ、武士たるもの、徳を積
    み、人として民の範となり、同時に民がしたくともできないことを代わって行なっ
    てこそ、真の武士の権威といえよう」

    「しかし、それでは藩士たちの肝心のお城のほうの仕事がおろそかになりませぬか
    ?」

    「では、訊ねるが今お城の仕事というのはいったいなんだ?役人同士のしきたりや
    慣わしを守る仕事は確かにあろう。が、民とつながる仕事をいったいお前たちのほ
    かに誰がしているのだ?」

     治憲の言葉は痛烈であった。城につとめる役人のほとんどが、今で言う「休まず
    ・遅れず・働かず」のお役所仕事をしているのだ。彼らの仕事のほとんどは民に向
    いたものではなく、幕府や他藩との付き合い、そして日常の同役同士の付き合いに
    向いている。今で言う官官接待の準備と実行に明け暮れる毎日というべきであろ
    う。木村は返す言葉がなかった。
29.桑の苗
  •  翌日、治憲はさっそく自ら城の庭で鍬を振るい始めた。観賞用の庭木など引っこ
    抜いて捨ててしまった。佐藤文四郎が手伝った。

    「文四郎、私は今桑を植えているが、実は桑を植えているのではない」

    「は?」

    「入国の日に灰皿の中に小さな火種が残っていたな」

    「はい。今も私がお預かりして絶やしませぬ」

    「ここに植えているのはその火種だ。民のために改革を進めてくれる人材が必ずこ
    の城内にいることを信じて、その苗を植えているのだ」

    「わかります。竹俣様や、莅戸様も、今、自分の家の庭でお屋形様と同じように鍬
    を振るっておられます」

    「それはうれしい。木村もか?」

    「はい、木村様もです」

    満足そうに治憲はうなずいた。

     建物の中から、特に渡り廊下には鈴なりの藩士群の顔が見えたが、この日誰も手
    伝いには降りてこなかった。というのは千坂ら抵抗勢力の重役が恐ろしい目つきで
    庭の治憲をにらみつけていたからだ。

     日暮れまでかかって佐藤とともに百本の桑苗を植え終わった。明日は全藩士を集
    めてこの桑畑を見せ、全員が苗を植えるよう要請するつもりだった。

     しかし、何者かが夜のうちにすべて引き抜いた。武家の庭の空き地とは普段は剣
    術や弓矢の稽古をしたりするスペースである。当然硬くしまっている。そこを掘り
    返すのには大変な労力がかかるが、植えたばかりの苗木を引っこ抜くのはすぐに済
    む。物音を聞きつけて佐藤文四郎が駆けつけたときには曲者は逃げ去ったあとだっ
    た。

     反改革派重臣の一人、侍頭(さむらいがしら)の芋川を呼んで犯人の探索を命じ
    た。今の日本の警察も長野のダムからロープでぐるぐる巻きにされた死体があがっ
    ても自殺だと断定したり、新潟の少女が十年間も監禁されていても見逃して、やっ
    と発見されても、県警本部長は警察の綱紀粛正のために監察に来た関東管区警察局
    長と温泉旅館で麻雀に興じていて、事件判明後も麻雀続行したぐらいである。まし
    てこの場合は犯人一味に探索を命じたようなものである。

     重役たちは探索の結果「犯人は犬でございました」というとぼけた返事を持って
    きた。長野のダム殺人も、むごい殺され方をしたのに自殺といわれた被害者のお母
    さんは怒ったようだが、さすがに治憲も怒りでめまいがした。しかし、怒りを必死
    で抑えた。

    「犬があのように念入りに、植えたばかりの桑の苗を引き抜くと思うか?」

    「さあ、それがし生まれてこの方、犬になったことはございませぬゆえ、犬の気持
    ちはわかりませぬ。なにか、犬なりによほど腹が立ったのでございましょうなあ」

    芋川は冷笑した。家臣にここまで侮辱を受けては、冷静沈着の治憲も、のどもとま
    で怒声がこみあげた。しかし、煮えくり返る思いをかろうじてこらえた。重臣たち
    の態度は単に治憲に嫌がらせをしているのではない。ことと次第では治憲と一戦交
    えてもかまわぬという気配が感じられた。ひとたび治憲がわれを忘れて怒れば一挙
    に襲い掛かろうとする魂胆が読み取れた。乱心した藩主を取り押さえたとすれば、
    治憲を廃嫡する大義名分が立つ。治憲は自重した。世間の二十歳ならもっと若者ら
    しく喜怒哀楽をそのまま出して、声を上げて笑い、怒鳴る。治憲はそれが許されぬ
    わが身が悲しかった。
30.籍田の礼
  •  時のたつのは早い。再び参勤交代で江戸出府しなければならない時期が近づいて
    いた。このまま江戸に戻ったのでは治憲が米沢で投じた一石の起こした波はさざ波
    ほどの後も残さず消えてしまうに違いない。治憲も時にくじけそうになったはずで
    ある。そんなある日、北沢五郎兵衛が目通りを願い出てきた。入国のとき板谷峠か
    ら米沢まで案内した侍である。

     用件は小野川温泉の近くの荒地を開拓したいということだった。北沢が采配する
    五十騎組が治憲の藩財政窮迫の実情表明を受け、協議を重ねた末、武士の身分を捨
    て、百姓となって開拓に当たる決意を固めたというのである。

     治憲は感激した。米沢にきて以来初めて支持者が現れたのである。

    「当家の窮状を見るに忍びず、武士を捨てて百姓になるというのか」

    「さようでございます。が、当家の窮状を見るに忍びないというよりも、組の者
    は、むしろお屋形様のご苦衷を見るに忍びないと、申しております」

    「そうか、そういうことであったか。北沢、礼を言うぞ」治憲は目頭が熱くなるの
    を禁じえなかった。

    「めっそうもございません。それがしは一度板谷峠で死んだ身。取り返しのつかな
    い不行き届きをお屋形様のお計らいで救っていただきました。残りの人生はすべて
    小野川の開拓に費やす所存です」

    「ありがたい。北沢、お前の願いを聞き届けよう。ただし武士の身分を捨てること
    はならぬ。藩士としての身分はそのままだ。城づとめの代わりに開拓を行うのだ。
    扶持(給与)も返上続きで十分ではないが、今までどおりとらせる」

     数日後、新開拓地で騒ぎが起こったとの知らせが入った。夜にまぎれて数十人の
    暴徒が開拓村を襲い、開拓武士たちの小屋に放火したというのである。

     佐藤はいきなり刀をつかんで走り出そうとした。

    「待て、文四郎、どこへ行くつもりだ?」

    「申すまでもありませぬ。犯人はどうせ反対派重臣の須田、芋川のせがれどもに決
    まっております。斬って捨てます」

    「証拠がない」治憲は静かに言った。「犯人はすべて承知で火をつけている。証拠
    も残さず、またたとえ、目撃者がいたとしても、仕返しを恐れて決して犯人の名を
    明かさないことも計算に入れて行動している。文四郎、短慮は敵の思うつぼぞ」

     治憲は佐藤とともに藩祖上杉謙信公を祀る春日神社と、上杉家が長く尊崇してい
    る白子神社のお札とお神酒を持って開拓地に向かった。開拓地ではまだ煙がくす
    ぶっていた。そこへ治憲は馬で乗り付けて籍田(せきでん)の礼を行うと宣言し
    た。

     籍田の礼とは中国の伝説的善政で知られる周王が行ったもので、天子が天から土
    地を借りるための儀式である。集まってきた開拓武士のうちで籍田の意味のわかる
    ものは少なかったが、治憲が儀式を進めると、彼の意図はわかった。

     治憲は宣言した。

    「この土地は、米沢の他の土地と同じように天から賜わったものである。私たちは
    天からこの土地を借りて耕す。この土地でできる稲や野菜は、春日神社と白子神社
    に捧げられる。もしこの土地に理不尽な挙を加えるものがあれば、謙信公と白子明
    神の神罰が下るであろう」

     犯人探しがうまくいかないのは桑苗の件でわかっている。これからの防止策を講
    じるのが大切である。当時の人々は今とは比べ物にならないほど迷信深い。神罰な
    ど恐れぬ罰当たり者もなかにはいるだろうが、火付けは見つかれば死罪である。放
    火に誘って実行まで加わればまず秘密を漏らす心配はないが、神のご加護がついた
    となると、しり込みするものが出るかもしれない。放火に誘って拒否されれば秘密
    の漏れる心配がある。うかつなものは誘えない。今回のような数十人という多数を
    集めることは相当困難というわけである。もちろん、一度放火までされた以上は警
    戒も厳重になる。ほんの数人で襲いに来るわけにもいかない。治憲は自分が江戸に
    行く前に開拓村の安全を確保しておきたかったのである。
31.七家騒動
  •  治憲の江戸出府の直前、江戸で大火があり、桜田と麻布にあった米沢藩の江戸藩
    邸も二つとも全焼してしまった。若い治憲は天の仕打ちを恨みたくなったことだろ
    う。

     キリスト教だと、こういう場合、神が与えた試練だと解釈する。神の試練を乗り
    越えることで神の国に近づくことができるのである。自分が神と信じる相手からひ
    どい目に合わされて、なお信仰を保ち続ける気持ちは私には量りかねるが信仰とは
    そういうものなのだろう。

     武士道だと、こういう厳しい運命は自分の修行だと解釈する。厳しい修行を乗り
    越えることでりっぱなサムライになれるのである。治憲は山中鹿之助のように月に
    向かって艱難辛苦を与えたまえとは祈らなかったかもしれない。もうこのぐらいで
    修行は勘弁してほしいぐらい思ったかもしれない。しかし、苦難にあってもひるま
    ないことでは治憲は鹿之助にも、どんなキリスト教徒にも負けなかった。

     治憲が藩主になって二度目の江戸詰めは江戸藩邸再建の多忙の中で過ぎた。米沢
    で筆頭家老となっている竹俣をはじめ、改革派も自ら山林に入って再建のための材
    木を切り出した。少数ではあるが材木切り出しに協力する藩士、領民もいた。藩士
    のうちでは桑を植え、藩が招聘した職人の指導で武士の妻女で機織りを始める者も
    出てきた。なんといっても下級武士は生活が苦しい。わずかでも家計の足しになる
    ならば、武士の体面ばかり言ってはいられない。治憲が始めた改革の種は次第に広
    がりを見せていたのだった。

     それに対して反改革派はクーデターを計画した。七人の重役が企てたので世に七
    家騒動という。しかし、あとから考えるとこの謀反はお粗末としか言いようがな
    い。彼らは治憲をみくびっていた。竹俣ら「君側の奸」がいなければどうにでもな
    ると思っていた。領民に治憲のことを「九州の小藩の小せがれで上杉家のような名
    門の跡継ぎとなる器量はない」とうわさを流したが、自分でもこの先入見にとらわ
    れていたのであろう。彼らはどこまでも「見ようと欲することしか見ない」人間
    だった。

     安永2年(1773年)6月27日、治憲二度目のお国入りの間のことである。
    治憲も数え23歳になっている。その日、反対派重役は偽の治憲の命令を出して竹
    俣ら改革派を登城停止にした。そうしておいて七人そろって未明に政務室に入って
    きた。

     佐藤文四郎は城内の異常を感知した。いつもなら午前十時ごろに「重役出勤」す
    る七人が早朝そろってやってきて治憲に至急の面会を申し込んだのである。治憲は
    佐藤を通じて用向きを訊ねた。「ご政務に関することだ」とだけ答えて委細は面談
    するという。政務に関することならば竹俣ら他の重臣の列席も要するから待てと返
    事した。

    「それでは四半時(30分)だけ待とう。われわれも激職の身だ。そうそうは待て
    ぬ」

     何が激職だと佐藤は反発したが、そのことを治憲に伝えた。仕事熱心な竹俣らは
    普段ならとうに出仕している時刻である。治憲もそんなに遅れるはずがないと思っ
    ている。四半時したら会うと告げさせた。ところが、理由も告げずに治憲が登城停
    止など命ずるわけがないと思って、竹俣らもすぐに城にかけつけていたが、門番が
    入れようとしなかった。治憲の愛用するオランダ時計が四半時経過を告げた。

    「文四郎、行こう」

    「しかし、城内は異常です。やはり竹俣様がご出仕になるまでお待ちください」

    「しかし、四半時と約束した」

    「重役たちの様子は尋常ではございません」

    「文四郎、武士にとって危険なのは何も戦場だけではない。四六時中、何が起こる
    かわからぬ。参れ」

     そういうと先にたって居間から政務室に向かった。入るなり治憲は重役たちの殺
    気を感じた。治憲は直ちに事態を正確に理解した。竹俣たちには、手が打たれてい
    る。彼らはいくら待っても来ない。今朝のことは計画的な反乱なのだ。そこで、殊
    更にこやかに

    「老臣たち、早朝からの登城大儀である。折り入ってこの治憲に話があるそうだ
    が」と語りかけた。

     重役の一人須田が分厚い冊子を治憲に渡した。治憲の失政を書き連ねてあるとい
    う。

     ずいぶん厚い。あとで読んでおくと言ったが、この場でお読みくださいという。
    いつの間にか治憲の前の須田以外の6人は出口各所を固めるように移動していた。
    この連中は政務知識はからきしだが、武術は達者である。治憲を部屋から出さない
    構えである。この場で読んで、彼らの意見を通すかどうか即答せよと迫った。

     とにかく読んだ。時間を稼がなくてはならない。くどくどと書いてあることはす
    べて改革派の悪口ばかりである。治憲の政策が具体的に米沢藩に害を及ぼすから失
    政だというのではない。奸知にたけた佞臣(ねいしん)を重く用いるのがよくな
    い、というにつきる。政策論争ではなく人事に対する不満である。

    「いろいろと重大なことが書いてある。私の一存でいかないこともある。大殿様
    (先代重定)にも相談してみよう」

     竹俣らがもはや来る見込みのないことは明白である。しかし、重定は米沢城中で
    隠居暮らしをしている。重定に相談するといえばこの部屋を脱出できる。

    「なりませぬ。大殿様はわれらの考えにご同意、藩士一同も同心しております。お
    屋形ご自身のお考えを即刻お聞かせください」須田はそういった。

     治憲は立ち上がった。そのまま出口に向かった。そこにいた芋川が「そうはさせ
    ませぬ」いきなり治憲のはかまをつかんだ。ほかの6人もばらばらと走りよってく
    る。

     佐藤文四郎が

    「おひかえください!お屋形様になんと言う無礼を!」

    叫ぶなり、思い切り手刀で芋川の腕を打った。佐藤は剣を取っては藩中無双の腕
    前、全身鋼のような筋肉である。芋川の腕はしびれた。

    「佐藤、きさま、重役になんという無礼を!」

    佐藤はとっさにここを死に場所と覚悟を決めた。迫る七人を戸口で大手を広げてさ
    えぎり、大音声で治憲に言った。

    「お屋形様、ここは佐藤が食い止めます。どうか、ご隠居所へお急ぎください」

    7対1ではかなわないとしても弁慶のように死してなお立ち続けて治憲を逃がす気
    迫である。7人はひるんだ。

     そこへ城中の異変を感じた重定がやってきた。

    「重役たるものが年少の主君に何たる振る舞い、早々にさがれ!」重定は激怒し
    た。

    他家から来た治憲には居丈高に出る彼らも重定には頭が上がらない。すごすごと引
    き下がった。

     重定は底をついた米沢藩の財政再建を一身に負っている若い養子を高く買ってい
    た。障害児の娘の幸姫にも余人のおよばぬ愛情を注ぎ続けてくれていることも深く
    感謝していた。重定が重役に同調するはずがない。
32.秋霜烈日
  •  治憲は7人の重役をこのままには済ませられないと思った。しかも、治憲はこの
    事件を治憲の考えを全藩士にわかってもらうためのきっかけに使おうとした。まだ
    まだ改革派は米沢藩の少数派だ。

     安永2年6月29日未明、治憲は藩士総登城の大太鼓を鳴らさせた。クーデター
    未遂事件以来7人の重役は登城していない。登城を促す使者をやっても、建言書が
    容れられなければ江戸まで出て、幕府に直訴するといきまいている。この非常呼集
    も無視した。自分たちが強く出れば治憲が折れると踏んでいる。

     全藩士を集めての会議ももはや珍しいことではなくなっていたが、その日は前藩
    主重定も列席し、大目付をはじめ、藩の監察系の役人を従えていた。いつもと違い
    治憲の表情も厳しい。これはいつもと違うと誰もが感じた。治憲は全藩士の前で建
    言書を朗読した。その後、全藩士に尋ねた。

    「重役たちはこの建言書に書かれたことはすべてお前たちも同意していると言っ
    た。それは事実か?もし、この建言書にお前たちも同意しているということが事実
    なら、私は潔く米沢藩主の座を去る」

     昔の武士はこういうときに発言する訓練はしていない。武士に二言はないという
    ことは発言したことをとがめられると、腹を切る羽目になるということである。う
    かつなことは言わない訓練はしてある。誰一人発言するものはない。

     北沢ら、開拓武士の一部が立ち上がりかけるのを治憲は目で制した。北沢らが改
    革派であることは誰の目にも明らかである。彼らが発言したのでは今回の評定も仕
    組まれたもの、茶番とみなされる。

     その重い空気を裂くように重定が言った。

    「もし、先の藩主である私への気がねがあるのなら、まったく無用である。遠慮な
    く思うところを申してみよ」

     重定の発言は大広間の無言の壁に突破口を作った。

    大広間の隅から声が上がった。訥弁ながら切々として治憲を支持する言葉だった。
    その後どっと同じような意見が続いた。その多くは身分の低い層から起こった。そ
    れに引きずられて、中級藩士たちも自分たちは重役に決して同意していない、どう
    か改革を継続してほしいと口々に訴えた。

    翌日一晩考えてなお治憲を支持するかもう一度確認した。前日のような重苦しい沈
    黙はなく、一斉に治憲支持の声が上がった。治憲の方針は現場で理解され、支持さ
    れていたのである。

    治憲は7人の書いた改革派への悪感情が多くの藩士の意見であるのなら、いさぎよ
    く藩主の座を降り、日向高鍋に帰ろうとまで思っていた。藩士自身がやる気になら
    なければ改革は進まない。本当に治憲の退陣が藩士全体の世論なら、言い訳をせ
    ず、去るつもりだった。しかし、ちがった。

    7月1日、7人の重役の処分が決まった。須田と芋川は切腹、千坂、色部は隠居閉
    門・半知召し上げ、その他3人は隠居閉門・知行のうち300石召し上げ、であっ
    た。

    たかをくくっていた7人にとって茫然とする厳しい判決であった。判決を聞いたあ
    とで、自分たちがなめてはいけない人物をなめていたことを知っただろう。治憲は
    平和の江戸時代二百六十余年を通じて随一の名君といってよいが、戦国の世に生ま
    れてもひとかどの武将になっていただろう。反対派重臣は準備も不足であった。謀
    叛をするなら何か理由をつけて手勢をあちこちに潜ませておくこともできたろう。
    しかも、何のために長い建言書など準備したのか?治憲に時間稼ぎさせただけであ
    る。重定が出てきて引っ込むぐらいならはじめから謀叛など企てないことである。
    ルビコンをわたった以上は突き進むしかないという、武将なら誰もが心得ておかな
    くてはならない兵理もわきまえていなかった。治憲はこの統治の鉄則をわきまえて
    いた。治憲が米沢にとどまる以上、断固として処分せざるを得ない。この点、治憲
    は迅速果断だった。

    切腹は即日行われた。切腹が二人も出たことについてはさすがに全藩士が動揺し
    た。治憲がいったん筋を通すとなると、果断に厳刑を下すことを身にしみて知っ
    た。

    養子の治憲が上杉家の旧臣を処分したのである。治憲にとっても乾坤一擲の冒険で
    あったはずである。このことで一挙に信頼を失い、藩士に背を向けられる可能性も
    あった。しかし、藩士たちはこの処分を支持した。むしろ7人を処断したことに拍
    手を送った。治憲は賭けに勝った。

    須田、芋川の切腹後、警吏が両家の家財処分に当たったとき、一通の密書が発見さ
    れた。かつての藩の学頭であり、藩医でもある藁科立沢(わらしなりゅうたく)か
    ら、須田に宛てたものである。藁科立沢は藁科松柏と同姓だが、心が狭く、猜疑心
    のかたまりのような人物だった。藁科松柏の門人である竹俣らが藩政の要路につく
    と自分の学頭、藩医としての地位が危ない、と先走りして疑心暗鬼の念に駆られ
    た。そこで須田に改革派の悪口を並べ立てたのである。密書は7人が治憲に提出し
    た建言書とうりふたつである。なぜ、時間稼ぎの役にしか立たないような、ばか長
    い建言書を治憲に出したのかこれでわかった。治憲を自分たちの弁舌で打ち負かす
    自信もなく、文才もない彼らは立沢の手紙を丸写しして建言書をこしらえたのだ。
    自分で建言書を作成することもできなかった重臣たち。彼らの謀叛が稚拙であった
    のも当然である。城中に手勢を潜ませていたとしたら勘の鋭い治憲にすぐに気づか
    れていたであろう。そもそも自分の部下に謀反の企てを打ち明けていたら、藩主へ
    の内通者が出て未然に防がれてしまっていたかもしれない。所詮彼らと治憲ではプ
    ロとアマチュア以上の差があった。もちろん、正攻法で上杉家の伝統を守り武士の
    体面を重視する主張をしたところで支持は得られなかったろう。

    正直な須田がまず立沢に乗せられたのだ。思えば須田は先年の江戸の大火に際し、
    もはや藩邸が全焼避けがたい事態となっても鬼のように藩士を陣頭指揮し、消火に
    努めたのだった。7人としてもこのような檄文がなければ不満を嫌がらせぐらいで
    発散することはあっても、謀叛の形をとるところまでは行かなかったかもしれな
    い。彼らは頑迷に古さを信じていたが、その古さを守ることが彼らにとっては公け
    の信念であった。そのほうが正しい藩政だと信じていたのだ。しかし、立沢にはひ
    とかけらの公心もなかった。立沢にあるのは私欲と保身のみである。報告を受けた
    治憲は激怒した。「斬れ」と厳として告げた。立沢は即日斬首された。
33.興譲館
  • 七家騒動の処断が終わった年の冬のことである。治憲は藩校建設について検討す
    るよう部下に命じた。米沢の藩民が富むためにはよき改革者が切れ目なく生まれ続
    けなくてはならない。そのためには学校が必要である。治憲の考える新しい学校は
    藩士の子弟ばかりでなく、百姓町人の子供も入れるものとしたかった。もちろんそ
    こに招く先生は第一に細井平洲である。

     治憲の構想に反対するものはいない。問題は費用である。費用は概算で五百両。
    どこからか捻出できないものか?近習たちは検討作業に入った。

     その夜、竹俣が治憲のところにやってきた。

    「お屋形様、みんなから聞きました。どうぞ学校をお建てください」

    「しかし、そんな金が」

    「金はございます。恐れながら、お屋形の質素な日々のお暮らしぶりを見て、いか
    になんでもあれではお気の毒だと、せめて夜の膳にお酒でもとか、あるいは時には
    魚をもう一皿つけて差し上げてほしいと、藩士や庶民から毎日のように何がしかの
    醵金がございます。竹俣、無断でこれらのお金をお預かりしておりました。そのお
    金が今では数百両に達しております。その金で学校が建ち、しかも、武士だけでな
    く庶民、農民の子まで入学できると聞いたら、みなのもの、どれほど喜びますこと
    か。これこそ、まさに生きた金の使い方です。どうぞ、思いのままにお使いくださ
    い」

     あまりのことに治憲はことばに詰まった。藩士や領民がそこまで自分のことを考
    えていてくれたのかと感動したのだ。

    「ところで、お屋形様、学校の名前はもうお考えですか?」

    「興譲館だ」

    治憲は即座に応じた。興譲とは「譲を興す」と読み、人を人として敬い、譲り合う
    生き方が徹底すれば仲のよい地域社会となり、そのことによって国も栄えるという
    理念を示したものである。

    不足のお金は藩士領民の募金によってまかなうことにした。驚くほどの募金が集
    まった。身分の別なく教えるという理念がよかったのだろう。興譲館の建物の完成
    までには数年を要した。

     教授場は上等、中等、下等の別があり、講堂、文庫(図書館)があった。食堂、
    宿泊寮、医学館、浴室も完備していた。よく工夫された至れり尽くせりの学校だっ
    た。正規学生は二十人だったが、必ずしも若者ばかりでなく、学才があれば中高年
    も入れた。学生生活は自治を重んじ、自分たちの中からリーダーを選ばせて、藩は
    口を出さなかった。口は出さなかったが金は出した。選ばれたリーダーには学費を
    免除し、逆に手当てと食料を給付した。

     学生への講義のほか教授たちは月6回、講堂で公開講座を開いた。まさに藩士も
    庶民も一緒に学べる学校であった。
34.一字一涙の碑
  •  細井平洲は当時第一級の学者であったが、百姓町人にもわかりやすく講義をする
    ことができた。彼は江戸の街角で辻講釈もしたし、日本各地村々を回って講義をし
    た。平洲の話し方は平明なだけではない。感情が入る。面白おかしい。聴いている
    方は、その度に笑ったり、涙を流したりした。そして話を終わった後、聴衆の胸に
    は一様に深い感動が残っていた。

     人民とは為政者に治められる愚民ではない。平洲は治者に父母としての愛情を求
    める一方、人民の側にも子として学問の道にいそしみ、国家有用の人材となること
    を期待した。

     平洲の著書「嚶鳴館遺草」は幕末の志士たちに大いに読まれた。吉田松陰は、
    「この書は経世済民の書であって、読めば読むほどよい政治とはどのようなもので
    あるかが分かる」といって、常に座右から離さなかったということであるし、西郷
    隆盛も、この書に巡り会って感動し、「民を治める道は、この一巻で足りる」と
    言って、この書を他人に勧めたという。

     平洲の教育者としての心得が「嚶鳴館遺草」に記されている。

    「人を教えるうえでの心得としては、菊好きの人が菊を作るようにしてはならない
    もので、百姓の菜・大根を作るように心得なければならない。菊好きの人が菊を作
    るというのは、『花、形が見事に揃うよう、立派な菊の花ばかりを咲かせよう』と
    して、多くの枝をもぎ取り、延びすぎたところは、切り揃え、その人の好みの通り
    に仕立て、咲かない花は、花壇の中に1本もないようにするもの。百姓の菜・大根
    作りというものは、1本1本も大事にして、畑の中には、上手に育ったもの、そう
    でないもの、へぼなものもあったりして、大きさも大小、さまざまに不揃いなもの
    だが、それぞれを大事に育て、良く出来たもの、そうでないものも、食用の用に立
    つように育てる。人の才能というものは、すべて同じではないということを理解せ
    ず、自分の考え通りに育てることができるというような一方的で偏屈な考え方で
    は、教えを受ける側も大変迷惑なものだ。知識に優れた者、そうでない者、才能の
    ある者、ない者、それ相応に世話をして、結局は、心良き人になれば、なにか用に
    立つことはあるものと考える・・・。」

     これこそ、明治以来日本の学校の先生の心がけてきたことではなかったろうか?
    ネイティブ韓国人の呉善花女史が来日したとき八百屋でいつも「新鮮でいいところ
    をくださいね」とか「今日はいい野菜が入りましたか」とか声をかけていたら、し
    まいに八百屋に腹を立てられてびっくりしたという。韓国では八百屋で売れ残りの
    鮮度の落ちたものを売りつけたりするのはごく普通のことであり、客も十分品定め
    をして買うし、「いいところをくださいね」などというのはあいさつ代わりの普通
    の会話であるという。ところが日本では八百屋も自分の職業に誇りを持ち、職業倫
    理をもって新鮮で安全な野菜を提供しているのである。初めてきた外国人の客に
    「いいところを」と言われるならともかく、毎回となると、何か前回買った野菜が
    まずかったとか言いがかりをつける気かと思われたのである。

     韓国では八百屋になろうと思ってなる人はいない。誰もが上昇志向であり、一流
    大学を出て、一流企業に勤めるか、高級官僚、大学教授などを目指す。八百屋にな
    るのは落ちこぼれの証拠である。根性がいじけていて当然であり、誰からも信用さ
    れず、仕事への情熱などかけらもなく、どうせ八百屋など誰も信用していないので
    あるから、それに見合って少しでも相手が品定めを怠ろうものならごまかして儲け
    ようとするのが当然なのである。日本も偏差値輪切り教育を続ければこうなってし
    まうのではないだろうか。今でこそ日本では医療事故が起これば医者が悪いことに
    なり、牛肉偽装事件や期限切れの牛乳混入事件があれば業者が責任を問われる。そ
    のうち医療ミスがあっても、その医者を選んで自分に投与された薬や注射をチェッ
    クしなかった患者が悪いことになり、食中毒があっても品定めをおろそかにした客
    が悪いと言われる時代になるだろうか?

     「多くの枝をもぎ取り、延びすぎたところは、切り揃え、その人の好みの通りに
    仕立て、咲かない花は、花壇の中に1本もないようにする」教育と、「畑の中に
    は、上手に育ったもの、そうでないもの、へぼなものもあったりして、大きさも大
    小、さまざまに不揃いなものだが、それぞれを大事に育て、良く出来たもの、そう
    でないものも、食用の用に立つように育てる」教育とどちらが優れているだろうか
    ?病院だろうと、店頭だろうと、常に商品薬品の吟味を怠らず、医師や製造業者の
    犯罪行為の監視システムを整え、消費者の自己責任を問われる社会と、医師の治療
    に安心して身を任せることができ、八百屋の差し出す野菜を出されるままに安心し
    て口にすることができる社会と、どちらが心やすまる社会だろうか?グローバル
    化、競争社会の弊害を思わずにいられない。

     さて、それほどの細井平洲である。僻遠の地米沢に骨をうずめると言うわけには
    いかない。しかし、治憲の求めに応じて米沢には3度も訪れた。もちろん興譲館で
    も講義したが、地方も回って講義をした。小松村では3日間で数百人の聴衆を集
    め、米沢に戻るときにはおりしも降りしきる雪の中で、村民七、八百人が地面に手
    をついて声を放って泣きながら見送ったと言う。

     3度目に米沢を訪れたのは寛政8年(1796年)、すでに治憲隠居後のことで
    あった。このころは平洲は天下に名君と知られる米沢藩主治憲の学問の師として高
    名となり、尾張藩校明倫堂の督学(学長)を務めたり、天下に隠れもなき大学者に
    なっていた。その大学者が僻遠の米沢まで来てくれたのである。このとき平洲、数
    え69歳。新幹線「つばさ」などない時代である。もはや二度と米沢まで来ること
    はできまい。このとき治憲は米沢郊外の関根宿の普門院という寺まで出迎えた。

     治憲は平洲の来訪を告げる先触れが来ると、普門院の山門を出て、道まで出迎え
    た。地べたにひたいをこすり付けんばかりにして出迎えたという。いかに平洲が大
    学者とはいえ、治憲も一国一城のあるじ。しかも、三百諸侯に並ぶものなき名君と
    たたえられるまでになっている。もはや初めて平洲の講義を受けた14歳の昔では
    ない。平洲のほうも恐縮した。まわりで見ていた百姓たちも驚いた。

    そのときの治憲の手厚い出迎えに感激した平洲はその様子を高弟に手紙で伝えた
    が、そのときのことを思い出して手紙に書こうとすると、一字書けば一粒涙がこぼ
    れるほどだと、書き残した。大正年間になってこの手紙文の「一字一涙」のくだり
    を石碑に刻んで普門院境内に建立した。一字一涙の碑として今も残っている。
35.社会福祉
  •  本書では触れていないが、治憲の社会福祉政策もまた当時としては非常に進んだ
    ものであり、大いに現代も参考になるものと思われる。

     米沢市医師会のHPに治憲の医療政策のことが紹介されている。興譲館が落成し
    てしばらくして医学校も併設された。医学校は好生堂と命名された。「好生」は
    「書経」の一節「好生の徳は、万民にあまねかし」(人の生命を大切にする徳を万
    民にゆきわたらせる)が出典であるといわれる。

    西洋医学が恐怖と疑惑の目で見られていた時代に治憲は藩医数名を杉田玄白、大槻
    玄沢ら著名な蘭方医のもとに派遣し、新しい医術を学ばせ、好生堂でその成果を広
    めた。この国内留学制度は勤学制度と呼ばれ、その後も継続された。また高価な医
    療機器や洋書を購入し好生堂での教育、実習に役立てた。

    こうして養成された医師たちは藩内各地に派遣された。彼らには官舎が与えられ優
    遇された。

    治憲の少子高齢化対策としてはすでに鯉の養殖事業について述べた。治憲の藩主就
    任当時農民が禁を犯して米沢領から逃散しつつあったことはすでに述べたとおりで
    あるが、大人がそのような状態である以上、老人子供の状態は更に悲惨であった。
    当時「間引き」と言われた新生児殺しは蔓延し、働けなくなった老人は野山に捨て
    られた。鯉の養殖は子供や老人も一家に現金収入をもたらしてくれる労働力とする
    ことになり、老人に生きがいを与えることとなった。

    色彩の美しい米沢の鯉は、治憲の藩主就任と同時期に将軍の側用人となった田沼意
    次の賄賂政治の時流に乗って、幕府要人や豪商たちが争って求める全国ブランドに
    なった。

    さらに三助の精神の具体化として農村に五十組合を作らせた。五人組によって年を
    とって子のないものや、幼くして親のないものを援助させ、五人組で力の及ばない
    ときには十人組で面倒を見るようにさせた。

    現代の生活保護制度はどこかわからないところから支援のお金が降ってくるような
    ものであり、ある程度収入があると打ち切られてしまうなど、人を怠け者にするよ
    うな制度である。隣近所の人が助けてくれるのだと、自然に感謝の念がわき、畑仕
    事のできない老人でもせめて養殖した鯉をおすそ分けしたりとか、なにか自分にで
    きることをしようという気になる。

    また、老人をいたわる孝子を表彰し、90歳以上の老人には年金を与えた。また、
    折に触れて90歳以上の老人を米沢城に招待し料理と金品を振舞った。子や孫が付
    き添って世話をすることになるから、自然に老人を敬う気風が育った。養父重定の
    古稀の祝いに領内の70歳以上の者738名に酒樽を与えたが、その31年後、鷹
    山自身の古稀祝いの時にはその数は4560人に増えていた。
36.行政機構
  •  目的が手段を正当化するとしても、目的にはそれに適合した手段が選ばれなくて
    はならない。治憲が選んだ自分の政策を進めるための手段もまた、民への愛情を政
    策の根本とする治憲らしいものであった。

     彼は藩士のうちから能力のあるものを抜擢して以下の3種類の役人として配し
    た。

    1.郷村頭取と郡奉行

     行政一般の総監督。藩庁の政策実現に努力すると同時に領民の要求を汲み取る役
    目を持つ。

     治憲が彼らに出した指示は「民の父母」となれということだった。内村鑑三は治
    憲の指示を以下のように伝えている。「母親はものいえぬ赤ん坊が何を欲している
    か要求をくみとって世話をする。それは真心があるからである。真心は慈愛を生
    み、慈愛は知識を生む。真心があれば不可能なことはない」

    2.教導出役

     一種の巡回説教師。親孝行、寡婦や孤児への慈悲、婚礼、着物、食事の作法、葬
    式や家の修理のことなど、さまざまな慣習や儀式を人々に教えた。全領を12の教
    区に分け、各地区に一人の教導役を置いた。彼らは年2回合同会議を開き、意見交
    換をして領民の道徳を高めることに勤めた。また、随時仕事の進捗状況を藩主に報
    告した。

    3.廻村横目

     警察制度。彼らは情け容赦なく、村や町の隅から隅まで調べ上げた。犯罪者を出
    すことはその地区の恥になった。教導出役は自分の担当地区から犯罪者が出たとき
    は責任を問われた。

     この三つの役目は驚くほどうまくかみ合って機能した。どれほど優れた政策も領
    民が理解することができなくては進まない。また、共同作業をするときに怠け者が
    一人でもいれば、まじめに働くものが馬鹿を見る。郷村頭取と郡奉行が政策を進
    め、政策についての領民の理解を助け道徳を高める役目を教導出役が務め、規律違
    反に対しては廻村横目がとりしまる三位一体の統制制度である。

     これらの制度がうまく機能したのも、治憲の率先垂範の態度と、民への愛情が
    あったからだと言えよう。人は政策がいいか悪いかよりも誰の言葉かによって判断
    するものである。治憲の質素な生活ぶりと、繰り返し行われた藩主による農村巡回
    で治憲が農民たちに見せた慈愛あふれる態度が、かたくなな農民たちの心を開かせ
    たのである。

     してみせて

    言って聞かせて させてみて

     ほめてやらねば人は動かじ

    とは山本五十六の歌だが、治憲は五十六に先んじてこの歌の内容を実践していた。
37.藩主教育2
  •  治憲が上杉家の世子と決まったあとで先代重定に男子が生まれた。治憲はこの子
    が13歳になったとき自分の世子とした。第十代藩主となる治広である。治憲がい
    かに粉骨砕身しようと、治憲死後もとのもくあみとなっては意味がない。次代の藩
    主教育はきわめて重要である。

     大事な教育係に治憲は腹心の部下木村高広を登用した。人材登用で常に優れた才
    能を発揮した治憲も、結果的にはこの人選は誤っていた。

     木村はあまりにも治憲を神様のようにあがめるようになっていた。世子教育もす
    べて治憲の言行を見習うようにという態度で臨んだ。木村から見ると、13歳の治
    広はまるでだめな少年だった。木村はびしびし鍛えた。鍛えただけでなく、ことご
    とに治憲と比較した。

    人には持って生まれた才能というものがある。十年に一人と形容されるなら、よほ
    どの逸材である。江戸時代二百七十年を通じて最高の名君、治憲と比較されたので
    はたまらない。治広はいじけた。次第に木村を遠ざけ、新しい側近群を作った。次
    の藩主に取り入ろうとする輩はいつの時代にもどこにでもいる。

     19歳になったある日、治広は木村に対して爆発した。「だまれ。ことごとに養
    父との対比で厳しく求めるが、私には到底そのほうの申すようなことはできぬ。も
    はや二度とそのほうの顔など見とうない。さがれ、さがれ」

     木村は完全に治広の教育に失敗したことを知った。その夜、木村は自刃した。

     初めて藩政改革に取り組んだときの治憲の腹心の部下たちはほとんどいなくなっ
    てしまった。藁科松柏は肺病で死に、竹俣当綱は改革が軌道に乗り始めたところ
    で、背信的汚職により失脚、その責任を感じて莅戸善政も辞職した。今また木村が
    自殺した。もはや当初の腹心で残っているのは佐藤文四郎のみである。
38.天明の飢饉
  •  傷心の治憲を天明の飢饉が襲った。

     日本列島全体が冷害と洪水に呻吟した。特に東北地方では7月になっても3、4
    月の気候でしかなく、食糧不足から、犬が1匹500文、猫が300文で売買され
    るようになった。そのうち、わらや、松の皮だの、雑草まで高値で取引されるよう
    になった。青森や、岩手では食人まで行われた。

     この世の地獄という窮状の中で治憲は悲嘆にくれてはいられなかった。米の配給
    制。酒、酢、麹、菓子、豆腐、納豆など穀類の加工品の製造禁止。比較的被害の少
    ない藩から食料調達。矢つぎばやに手を打った。

     近隣諸藩からの救援要求は謝絶した。ただし、他領から流入する飢民については
    藩民同様の保護をした。

     他藩の政治がまずい分についてまで米沢が責任を取ろうとはしないが、その犠牲
    となった民衆については米沢藩民と区別なく扱うというのが治憲の考えであった。

     他領でばたばた餓死者が出ているというのに米沢藩ではまだ一人の餓死者も出て
    いなかった。こういうときに多くの餓死者を出す他藩の藩政府責任者には治憲は激
    しい怒りを感じた。

     東北の飢民はついに国境を突破して江戸に向かった。米沢にも流れ込んできた。
    江戸に怒涛のように流れ込んだ飢民は全東北からやって来ていたが米沢から来たと
    いうものは一人もなかった。米沢には米があるといううわさが広まり、江戸に集
    まった飢民まで米沢に向かうようになった。「藩民と区別してはならぬ」という厳
    命なので米沢の食料はたちまち減った。他国者まで引き受けるとはと、怨嗟の声が
    起こった。

     ついに治憲も万策尽きた。治憲は春日・白子の両社に参り、断食に入った。

     「手立てに困ったときの飢饉の救済法」という名高い金次郎の講話がある。

    「国が飢饉になり、倉庫は空になり、民の食べるものがない。この責任は治者以外
    にないではないか。民を善に導き、悪から遠ざけ、安心して生活できるようにする
    ことが治者の使命ではないか。このときにあたり、よく救済策を講じることができ
    ればよし、できない場合には、治者は天に対して自己の非を認め、自ら進んで食を
    断ち、死すべきである。

     飢えた人々に対して、そのような犠牲のもたらす道徳的影響は直ちに明らかにな
    るだろう。

    『ご家老様とお奉行様が、もともと何の責任もないにもかかわらず、私たちの困窮
    のために責任を取られた。私たちが陥っている飢饉は豊かなときに備蓄をせず、ぜ
    いたくと無駄づかいをしたためだ。立派なお役人をいたましい死においやったのは
    私たちのせいである。私たちが餓死するのは当然だ』

     こうして飢餓に対する恐怖も消え去るだろう。国に飢餓が起こるのは民の心が恐
    怖に覆われるからである。治者がまず進んで餓死するならば、飢餓の恐怖は人々か
    ら消え、救われるだろう。これが何の手立てもないときに飢えた民を救う方法であ
    る」

     飢饉のときに被害を増大させるのは飢餓の恐怖で人々が買いだめ売り惜しみをす
    るからである。統治者がすすんで餓死するならば、買いだめ売り惜しみをする者も
    自らを恥じて食料供出がスムーズに行くようになるだろう。金次郎の講話は人間心
    理をよく見抜いたものといえる。

     金次郎は天明7年(1787年)の生まれであるから、もちろんこのときの治憲
    が金次郎の講話を知るはずもない。しかし、万策尽きた治憲は餓死も辞さない決意
    だったろう。周囲はいま治憲の健康にもしものことがあったらと、非常に心配し
    た。

     しかし、天は治憲を見放さなかった。断食に入って3日目、降り続いた雨は雷鳴
    を伴ってひとしきり激しく降ったあと、やんだ。それから猛暑となり米沢は危機を
    脱した。領民たちは

    「お屋形様の誠意が天に通じた」

    と喜び合った。
39.治憲隠居
  • 治憲は藩全体が自分ひとりを頼っているのを感じた。かつては九州の小藩から来
    た養子の若造として誰一人言うことを聞こうともしなかったのに、今は治憲のこと
    ばは神託のごとく受け止められ、治憲に仕事を命じられた者は仕事を完璧にこなさ
    なくてはいけないと過大な責任感におしひしがれてしまうようになった。

     これではいけない。家臣を自分ひとりに頼らせぬようにしなくてはいけない。治
    憲は引退を決意した。天明5年(1785年)治憲は隠居し、治広が第十代藩主と
    なった。治憲はまだ35歳。それでいて18年も藩政を主宰してきたのだ。
40.伝国の辞
  •  治憲は藩主の座を治広に引き継ぐに当たって藩主の心得として以下の三条を示し
    た。これは「伝国の辞」と呼ばれ、これ以後、米沢藩主が交代するたびに引き継が
    れた。

    1.国家は先祖から子孫に伝えられるもので、決して私すべきものではない

    1.人民は国家に属するもので決して私してはならない

    1.国家人民のために立ちたる君主であって、君主のために人民があるのではない

     この実物の写真が下記HPに掲載されている。藩主就任のときの誓詞と比べる
    と、格段に習字が上達している。この18年にどれほどの書類を書き、どれほどの
    手紙をやり取りしてきたのか?誓詞では角張った、ぎこちない、幼さの残る字体で
    あったのが、枯れた丸みのある老成した筆跡になっている。

    http://hi-speed.hp.infoseek.co.jp/uesugi-1.htm

     この思想はまさしく民主主義そのものである。

    民主主義とは意見が対立したときに多数決で決める政治制度だと思い込んでいる人
    が多い。この考えに従えば情報を独占する一部官僚がマスコミを操って国民を扇動
    し、国会の多数を握って国政を私する現行制度はきわめて民主的な制度である。

    民主主義思想の父といわれるルソーはそんなことは言っていない。ルソーは一般意
    思と全体意思とを区別している。

    一般意思とは共同の利害が目的となっており、人類の平等が原則である。これに対
    し全体意思とは一部の国民の特殊利害に妥協するものである。これはたとえ一定期
    間社会の多数の支持を得られても一般意思とは全然違う。多数決はなんら真理の基
    準ではないし、民主主義の基準ではない。全体が間違うこともありうるし、多数で
    間違ったことを決定することもありうるからである。万人の権利を尊重し、合理的
    に考えて導き出されるのが一般意思である。たった一人で主張された場合でもこれ
    こそ人類全体の意思であり、これに基づく判断だけが民主的なものである。

     万人の権利を尊重し、合理的に考えれば、出てくる政策がそんなに大きくぶれる
    はずはない。

     ルソーは言う。
    「社会のきずながゆるみはじめ、国家が衰えはじめると、また、個人的な利害が意
    識されだし、いくつもの徒党が社会に影響をおよぼしはじめると、共同の利益は変
    質し、反対者を見いだすようになる。つまり、投票において、もはや全員一致が多
    く見られるということはなくなり、一般意思はもはや全員の意思ではなくなる。そ
    して、反駁や論争が起こり、どんな立派な意見でも、論争を経なければとおらなく
    なる。

     最後に国家が滅亡にひんして、もはやごまかしのむなしい形でしか生きながらえ
    なくなり、社会のきずながすべての人の心の中で破られ、きわめていやしい利害
    が、あつかましくも公共の福祉という神聖な名前で身を飾るようになると、そのと
    きには、一般意思は沈黙を守るようになる」(「社会契約論」)

     つまり、国民一人一人が私欲のために活動し、徒党を組んで国政に多数を占める
    ことを目指すわが国の現状は、ルソーに言わせれば民主主義国家が滅亡に瀕してい
    る兆候である。

     ルソーは代議制についてきわめて懐疑的であり、「人民が代表者をもつやいな
    や、もはや自由ではなくなり、人民はもはや存在しなくなる」とまで述べている。
    というのは代議制度が行われるということは公共の義務が国民の主要な仕事でなく
    なっていることを表すものであり、国民が自分の体で国に奉仕するよりも財布で奉
    仕するほうが楽だと思うようになったことを示すものだからである。「誰かが国事
    について、俺の知ったことではないというやいなや、国家の運はきわまったものと
    考えるべきである」(同上書)たいがいの官職は良識、正義、潔白があれば十分に
    こなしうるものであり、よく構成された民主国家ではこのような資質はすべての国
    民に共通なのだから、官吏は抽選で選べばよいと語っている。「良識、正義、潔
    白」が民主国家の市民に共通の資質であるとルソーは述べた。治憲が自分の部下に
    領民の統治に当たってもっとも大事なことは母親が子供に対するような慈愛であっ
    て、このまごころさえあれば才能の不足を心配することはないと語った。両者の考
    えはほぼ同じといっていい。

    「民主主義は、決して単なる政治上の制度ではなくて、あらゆる人間生活の中にし
    みこんでいかねばならないところの一つの精神なのである。それは人間を尊重する
    精神であり、自己と同様に他人の自由を重んずる気持ちであり、好意と友愛と責任
    感とをもって万事を貫く態度である。この精神が人の心に広くしみわたっていると
    ころ、そこに民主主義がある。もしも民主主義がつくられるものであるとするなら
    ば、民主主義は人びとの心の中でつくられる。それを求め、それを愛し、それを生
    活の中に実現していこうとする人びとの胸中こそ、民主主義のほんとうのすみかで
    ある。」

    この文章は1948年に旧文部省から発行された中・高校用教科書「民主主義」の
    一節である。この短い文章中に、民主主義を生み出し、発展させてきた偉大な思想
    家たちの精神が凝縮されている。実に簡潔にして優雅な、何という美しい響きを持
    つ名文であろうか!これこそ真の民主主義の説明である。今の文部科学省の役人の
    何人がこの教科書の一節を覚えているだろうか?

     今の日本の官僚にどれだけ民主主義者がいるかはなはだ心もとない限りだが、治
    憲は疑いもなく民主主義者であった。
41.J・F・ケネディ
  •  治憲の民主主義思想は細井平洲によって養われた。細井平洲は独自にこの思想に
    到達したものであろうか?もちろん、民百姓を国のもととするという思想は東洋に
    も古くからあったし、口先だけならたいがいの封建領主もそういっている。

     平洲に影響したのはこの東洋思想の流れだけだったろうか?ルソーの「社会契約
    論」が発表されたのは1762年であり、治憲が引退に際して治広に伝国の辞を
    贈ったのは1785年である。非常に近い思想が地球のあちらとこちらでほぼ同時
    期に出現したと考えるべきであろうか?

     私は平洲は何らかのかたちで西洋の啓蒙思想に触れていたと思えてならない。当
    時日本の西洋への窓は長崎を通じてオランダとの間でのみ開かれていた。平洲は1
    745年から2年間長崎に留学している。ここで平洲は中国語を学んだことになっ
    ているが、多少とも蘭学に触れる機会があったはずである。主権在民や基本的人権
    の思想はルソーの前にすでにロックらによって17世紀のうちに表明されている。
    これが18世紀半ばに長崎まで伝わっていたとしても不思議はない。

     細井平洲の門人の一人で尊皇思想家として有名な高山彦九郎は蘭学者の前野良沢
    とも交流があった。前野良沢、杉田玄白らの「解体新書」が世に出たのは「伝国の
    辞」に先んじること11年の1774年である。ルソーが上杉鷹山に影響していた
    ことも決してありえないとはいえないだろう。

     ルソーと上杉鷹山の関係はあくまでも想像でしかない。「伝国の辞」からほぼ二
    百年を経て、上杉鷹山の思想が一人のアメリカ大統領に影響したことは確実な史実
    である。

     ジョン・F・ケネディが第35代米国大統領になったとき、日本人記者団と記者
    会見をした。

    「最も尊敬する日本人は誰か」

    という質問に対して、彼は

    「それはウエスギヨウザンです」

    と答えたという。日本人記者団で上杉鷹山を知る者がなく、「ウエスギヨウザンっ
    て誰だ?」と互いにささやきあったというエピソードが伝わっている。

    And so my fellow Americans,

    Ask not what your country can do for you.

    Ask what you can do for your country.

    (我がはらから米国民よ、

    祖国が諸君のために何をなしうるかを問うなかれ。

    諸君が祖国のために何をなしうるかを自問してほしい)

    という有名なケネディの大統領就任演説には明らかに鷹山の自助と互助を国の基盤
    とする思想、ならびに、治者に父母としての愛情を求める一方、人民の側にも子と
    して学問の道にいそしみ、国家有用の人材となることを期待した細井平洲の思想の
    影響が読み取れる。

     「山にある者は山を見ず」という。富士山に登山中の者にとっては富士山は荒涼
    たる赤茶けた砂礫の堆積としか見えない。富士山から離れて初めて富士山が類いま
    れな美しい山であることがわかる。

     内村鑑三は、キリスト教国ですでに二千年近くキリスト教による教化が行われた
    以上、そこではまさに地上における神の国が実現されているものと思い込んで米国
    に留学した。彼は米国にもすりがいることに驚き、日本では旅人にごく普通に示さ
    れる親切にいちいちチップを要求されることに驚き、門に鍵をかけ、玄関に鍵をか
    け、部屋ごとに鍵をかけ、更に机の引き出しごとに鍵をかける彼らの人間不信に驚
    いた。

    「その中に住んでいる間は、人は祖国の真の姿を知らない。祖国の真の立場、一大
    統一体としての祖国、その善い点と悪い点と、その強みと弱みとを理解するために
    は、祖国から遠く離れて立たねばならぬ」(内村鑑三「余はいかにしてキリスト信
    徒となりしか」)

     遠く離れた米国で育ったからこそ内村鑑三が英語で紹介した上杉鷹山をケネディ
    は評価することができた。逆に日本人記者団のほうが鷹山を知らなかった。浮世絵
    も日本では茶碗の梱包や焚き付けに使われていたが、西洋で優れた芸術と評価され
    てやっとその価値に気づいた。今こそ日本でも上杉鷹山を再評価するべきである。
42.改革の後退
  •  治憲の引退後、改革は目に見えて後退した。藩士が産業に従事する以上、経営の
    才が要求される。明治になって四民平等となったとき、武士が商売に乗り出して失
    敗するのを「武家の商法」と揶揄されることになるが、維新の百年前の米沢もまさ
    にそうであった。せっかくの殖産事業がどんどん衰退した。やりつけない仕事で苦
    労するよりも、昔のように城でくだらない書類をめくり、百姓町人に威張り散らし
    ている生活のほうが楽だった。

     新藩主治広は治憲にならってよく会議を開いたが、会議は侍が商人の真似はでき
    ないという空気に支配されるようになっていった。治憲も会議に列席したが、隠居
    の身である。治広を立てて余計な口出しはしなかった。

     ついに藩財政建て直しは倹約一途で行くということになった。治憲隠居の翌年、
    田沼意次が失脚し、その翌年白河藩主松平定信が老中首座となり、倹約第一の寛政
    の改革を始めつつあった。寛政の改革はわずか6年で惨めに失敗した。だが、この
    ころは輿望をになって定信が登場したばかりである。

     米沢藩収入15万石の半分で藩政をまかない、あとの半分は借金の返済に充てる
    ことになった。倹約するとき何を削ったか?寺社費用の削減、城中諸費用のいっそ
    うの削減、これはよいとしよう。

    藩校の閉鎖、樹芸物産役所の廃止を決めた。前者は将来の藩政を背負ってたつ後継
    者の育成をやめるということであり、後者は地場産業振興事業の中止を意味する。
    治憲の改革は富民を目標として、士農工商が身分を忘れて一体となって働き、若い
    人材を育成し、改革が民に痛みのみを強制するものでなく、楽しいものであるよう
    にという理想を根底にすえていた。

    しかし、治広の代になると、目前の金繰りに目を奪われ、先のことなんか考えてい
    られないという姿勢になった。なんだか今の小泉改革そっくりである。そして倹約
    一辺倒の政策で藩士領民の将来への不安が増大し、希望が失われ、やる気がなく
    なってしまう結果を招き、歳出の削減を上回って歳入が減るため、かえって財政が
    悪化するのも小泉改革とそっくりであった。

    米沢藩は再び危殆に瀕した。改革続行の声が開拓地にいる下級武士や、地場産業に
    携わっている藩士の家族からあがった。彼らはせっかく生きがいを得たのに、再び
    城中で上役の顔色をうかがって過ごす徒食者に戻りたくないと言った。家族は貧し
    い家計の足しになる収入を失いたくないと訴えた。その声はご隠居様にもう一度政
    務を執っていただきたいという要望にまとまった。

    しかし、治憲は耳を貸さなかった。自分が口出しすれば後継者が育たないと考えた
    からだ。人は失敗から学ぶ。親がことごとに手助けし、苦労知らずに育った子供は
    自分で考えて困難を乗り越えていくことができない。治憲が隠居後、藩政に一切口
    出ししなかったのは、単に治憲の謙虚な人柄を示すものではなく、治憲なりの厳し
    い藩主教育だったのだ。

    それでもいよいよ米沢藩が再び存亡の危機に陥ったとき、治憲は藩政に復帰した。
43.公共事業
  •  まず、重職に経営感覚のある人材を登用しなくてはならない。莅戸善政を再登用
    した。

     そして広く藩士に意見を出させた。

     汚職の告発に対しては厳しい取締りをもって臨んだ。

     黒井忠寄という藩士が新田開発のための用水路開削の土木事業を進言した。治憲
    は黒井に堰を作らせることにした。

     黒井は優れた算術の才能を生かし、粗末な器具で領内を測量し、驚くべき難工事
    を成し遂げた。最上川を米沢の北でせき止め、新たに取水口を設けて水路を掘り、
    全長70間の高架橋をかけて最上川を越えて北部地域に用水を流す大工事だった。
    この堰は黒井堰と名づけられ、現在はコンクリート製に生まれ変わってはいるが、
    健在である。さらに黒井は米沢藩西部を流れる白川の水量不足を解決するため、水
    量豊富な荒川に注ぐ大又沢の流れを飯豊山中の尾根にトンネルを掘ることで白川水
    系に流し込む工事にも着手した。標高1538メートルの豪雪地帯での作業は夏季
    の2ヶ月間に限られ、もちろんダイナマイトなどあるはずもなく、岩を掘りぬく工
    事は困難を極めた。黒井は着工の年に過労がたたって亡くなったが、彼の死後も工
    事は続けられ、着工から20年後文政元年(1818年)に完成した。坑道は全長
    約150メートル、高さ1.5メートル、幅約6メートル。硬い花崗岩を人力掘削
    したもので、両側から掘り進められたトンネルはわずかなずれで開通し、黒井の測
    量と計算技術の正確さは彼の死後に再び確かめられた。これも1980年に白川ダ
    ムができるまで現役であった。

     藩は安定し、領民は富み、国中が豊かに満たされた。治憲の始めた地場産業振興
    策は鯉の養殖、米沢織り、漆器、紅花、笹野の一刀彫とすべて現在も健在である。
44.棒杭の商い
  •  本書の終章は鷹山と改名した治憲が佐藤文四郎ら側近と馬の遠乗りに出かける場
    面になっている。文四郎は鷹山を板谷峠のほうに誘った。初めて米沢に来たとき、
    周囲の景色と領民の表情から「灰の国」に来てしまったと絶望した、あの道であ
    る。今は春、山の雪はとけて小川をほとばしり、里では一斉に花が咲いていた。

    「ゆたかになった」

    「そうです、ゆたかになりました。ご隠居様のおかげです」

    「私は何もしない。みんなおまえたちが努力したのだ」

    笹野観音まで来たとき門前で一刀彫を作っている老人がいた。

    「老人、売れるか」

    「これは、お屋形様」

    「よせ、土の上に座るのは。仕事を続けてくれ。売れ行きはどうだ」

    「それが馬鹿売れで」

    「有名になったな、笹野の一刀彫も」

    「へえ、みんなお屋形様のおかげです」

    街道へ出て鷹山は

    「馬鹿売れはよかった」

    と大笑した。

     やがて板谷宿を通り抜けた。板谷宿は見事に生き生きとよみがえっていた。そこ
    からほぼ一里、さびしい林間の山道となった。

    「ここです」

    佐藤にいわれて鷹山は馬をおりた。道の端に数本のくいが立っている。それぞれざ
    るが紐でつるされ、ざるの中には、にぎりめし、わらじ、栗、干し柿、野菜などの
    生活や旅の必需品が入っていた。売れたらしく金が入っている。

     鷹山は驚いた。

    「誰も盗まないのか」

    「盗みません。ご隠居様、あなた様のご努力がこのように実ったのです。

     潰れかかった米沢藩をあなたは立派に立て直されました。しかし、財政を再建し
    たというだけなら、私は何もここへお連れはいたしません。あなたは潰れかかった
    藩を再建しただけでなく、人の心をよみがえらせたのです。米沢の人間はもちろ
    ん、旅で通り過ぎる人間も、誰一人として、このざるの中からだまって品物を盗ん
    でいく人間はおりません。もう、棒杭にさえ、うそをつかないのです。あなたの一
    番のご改革は、人間をこのように変えたことです。人の心に信じあう心をよみがえ
    らせたことです。それは何よりもあなたが米沢の人間を信じたからです。人にだま
    されてもだましてはならぬ、とおっしゃり続けたからです。そして、その基は誰に
    もある他人への思いやり、やさしさを、自然に交わし合えるようになさったことで
    した。私は、何よりもこのことがうれしかったのです。

     いま、他国の人々はこの棒杭のことを“棒杭の商い”と呼んでおります。私はこ
    のことを米沢の誇りに思います。そして、あなたを米沢の藩主にお迎えしたこと
    を、心から誇りに思います」

     佐藤がざるの中からにぎりめしを取って代金をざるの中に置いた。鷹山はにぎり
    めしを受け取り道脇に腰を下ろした。見上げる木々の葉が陽光をさえぎり、涼しい
    風が吹いていた。

     鷹山は、はるか下方の米沢に目を移した。そして言った。

    「美しい国だ」

    「はい。そして、ゆたかな国です」

    「そうだ、私も遠い九州からこの米沢に養子に来て、本当によかったと思う」

    「本当にそう思ってくださいますか」

    「心からそう思う」

    「ありがとうございます・・・」

    今はもうこらえきれなくなって側近たちは肩をふるわせて嗚咽した。

     歴史に名を残すほどの人物の中で、鷹山ほど幸福な人物はいなかったのではない
    かと私は思う。若いときに掲げた目標、(1.藩財政を立て直す、2.領民を富ま
    す、3.社会的弱者をいたわる社会を実現する)を、すべて実現した。生涯贅沢と
    は無縁であり、藩財政が好転し、鷹山も老年となって、治広が中風で引退した後を
    継いだ第11代藩主斉定から、五十余年間二百両で据え置きのままだった鷹山の歳
    費の増額を提案されても、それすら丁重に拒絶した。足るを知ることが幸福の基と
    すれば彼は完璧な幸福のうちに生きていた。

     文政5年(1822年)数え72歳で鷹山は安らかに死んだ。葬儀の日、沿道は
    数万の人で埋まり、あるいは老人を伴い、あるいは幼児を抱いてひれ伏してひつぎ
    を拝み、嗚咽号泣の声を漏らさぬ者はなかった。山川草木もまたこぞってこれに和
    したと伝えられている。
45.東洋のアルカディア
  •  山形市から米沢に向かって国道13号線を南下すると、上山と旧米沢藩領の境の
    峠を越したところで突然視界が開ける。晴れた初夏にはじめてその景色を見た人は
    その美しさに息を呑むだろう。車の窓を開ければ盆地の隅々まで広がる田んぼの早
    苗をそよがせて吹き渡ってきた風がさわやかに香るだろう。小高い丘を埋めている
    のは雑木林ではない。ブドウ、サクランボ、リンゴ、洋ナシなどさまざまな種類の
    果樹である。

     このあたりの地名を置賜(おきたま)地方という。郷土の歌人結城哀草果は

    置賜は国のまほろば

    菜種咲き

    若葉茂りて雪山も見ゆ

    と歌に詠んだ。

     イギリスの女流探検家イザベラ・バードは、明治初年に日本を訪れ、いまだ江戸
    時代の余韻を残す米沢について、次のような印象記を残している。

    「南に繁栄する米沢の町があり、北には湯治客の多い温泉場の赤湯があり、まっ
    たくエデンの園である。鋤で耕したというより、鉛筆で描いたように美しい。米、
    綿、とうもろこし、煙草、麻、藍、大豆、茄子、くるみ、水瓜、きゅうり、柿、
    杏、ざくろを豊富に栽培している。実り豊かに微笑する大地であり、アジアのアル
    カデヤ(桃源郷)である。自力で栄えるこの豊沃な大地は、すべて、それを耕作して
    いる人びとの所有するところのものである。・・・・・・

    美しさ、勤勉、安楽さに満ちた魅惑的な地域である。山に囲まれ、明るく輝く松
    川に灌漑されている。どこを見渡しても豊かで美しい農村である。」

     彼女は彼女がこの地を訪れるより、わずか百年前には禁を犯して夜逃げをする領
    民が絶えなかったと聞いても信じられなかっただろう。

     この地方を結城哀草果はまほろばといい、バード女史はアルカディアと呼んだ。
    まほろばとは山に囲まれた住みよい場所という意味である。アルカディアは古代ギ
    リシアの山に囲まれた楽園のような場所のことである。まさしく旧米沢藩領にふさ
    わしい名称である。しかし、そこは決して自然に放置して理想郷の名にふさわしい
    ものになったのではない。あたかも自然の景色が凝縮されているかのような美しい
    日本庭園が、実は庭師の丹精込めた労作であるように、類いまれな名君が全人生を
    かけてこの理想郷を実現したのである。
46.日本の進路
  •  これで童門氏の著作の紹介はおしまいである。これからわが国の進むべき道につ
    いて私なりに考察を進めるつもりでいた。しかし、考えてみると、具体的に述べよ
    うとすればするほど、想像で考えるしかないことに気づいた。現場の意見を取り入
    れることなしにわが国を再生させることはできない。現場を知らない厚労省の役人
    の机上の計画のために私たち現場の医師と患者は泣かされている。私が具体的に日
    本の政治全般について何か考えたところで現場から遊離したものとなってしまうだ
    ろう。

     しかし、基本線についてはこれまで述べたところから明らかになったと思う。

     何よりも大切なことは諸外国の事例にばかり学ぼうとする姿勢を改め、自分自身
    の歴史に学ぶことである。

     日本の歴史の誇るべきところは西洋が戦争と殺戮に明け暮れて、人間不信に基づ
    く文化を発展させた近世に、人間の信頼と友愛に基づく文化を発展させたところに
    ある。西洋の文化はいわばカギの文化である。不心得者がいても物が盗まれないよ
    うに、というのが西洋式である。日本の文化はこれに対して障子の文化である。障
    子やふすまにカギをかけることはできない。不心得者がいなくなるように教育する
    のが日本式である。

     戦後、せっせとアメリカの文化と法制度を移植し、必死に働いて物質的に豊かに
    なったが、日本人は幸せになったろうか?

     現代人は米沢15万石の領主であった上杉鷹山が生涯一度も口にしたことのない
    ような世界の珍味を毎日のように食べながら、なお、グルメ情報に食欲をかきたて
    られ、肥満と生活習慣病におびえつつ暮らしている。

     かつて高嶺の花と思えたカラーテレビや、冷蔵庫、乗用車までがほとんどの家庭
    に行きわたり、鷹山が見たらその豊かさと便利さに目を回すであろう。しかし、私
    たちは15万石の領主が驚くばかりの暮らしをして、なお満たされることがない。

     私たちが目にし、耳に聞き、あるいは感ずるすべてのものが私たちに何かを売り
    つけようとする努力を表すものである。われわれの意識の中に入り込むために、広
    告は絶えずショックを与え、いらいらさせ、さもなければ昔中国で行われたという
    水滴をたらす拷問のようなやり方で、つまりたえず反復を加えることで物欲をかき
    たてようとする。

     飢餓にさいなまれる国民が死刑になる危険を冒して畑の大根1本を盗む北朝鮮
    と、くまなくビデオカメラで監視されたコンビニで万引きや強盗が起こるのが日常
    茶飯事となってしまった飽食の日本と、棒杭の無人販売が可能であった社会と、ど
    の道を歩むべきか、明らかではなかろうか。

    今や、日本には民主主義のための法制度は十分に整った。今こそ、人間を尊重する
    精神と、自己と同様に他人の自由を重んずる気持ちと、好意と友愛と責任感とを
    もって万事を貫く態度を持つ国民を育成しようではないか。
47.初等教育
  •  改革というと経済改革のように受け取られるが、鷹山や金次郎の例を見ても、ま
    ず人間が改革されなくてはならない。経済と道徳を結び付けなくてはならない。一
    番不道徳な人間が一番もうかるようなアメリカ式のグローバル化は断じて拒否しな
    くてはならない。むしろ日本式の自助と互助で支えあい、富国の基礎に修身がある
    ような方式を世界標準とするように世界に向かって働きかけるべきである。

    そこで、まず教育を改革の基本におかなくてはならない。教育の改革とは基本的に
    カリキュラムをいじることではない。何よりも優れた教師を養成することである。
    優れた教師とは、生徒に対する愛情豊かな教師である。生徒に対する愛情さえあれ
    ばどんなマニュアルも要らない。自分の工夫で生徒を導いていくことができるはず
    である。中江藤樹のような、細井平洲のような、そして私の担任だったI先生のよ
    うな教師を日本中の学校に配置することができれば必ず日本は再生される。

     知育を学校で、徳育は家庭や教会でなどというアメリカ式の考えは日本では通用
    しない。日本では知育と徳育を分けて考えたことはなかった。

     遅まきながら文科省でも道徳教育の重視を掲げつつある。しかし、小学生に愛国
    心を教えようなどと企てるのであれば、無駄である。

     ルソーが教育論について述べた「エミール」にも書かれているが小学生が観念的
    なことを理解することは非常に困難である。もちろん教え込めば小学生でも論語を
    そらんじることもできるだろう。それはそれで無意味なことではない。子供時代に
    わけもわからず覚えたことが大人になって意味がわかるという経験も貴重ではあろ
    う。

     しかし、日本には昔から初心者はまず形からというやり方がある。観念的に茶の
    湯の心を理解することはできなくとも、茶の湯の作法をまず習得することで、行儀
    作法が身につき、習い性となれば、茶道の心も次第に理解できるのである。小学校
    で教えるのは観念的道徳よりも行儀作法であるべきである。

     もう一度全国の小学校に二宮金次郎の銅像を建て、偏差値の高い生徒ではなく、
    働き者で善人の生徒を養成するように目指さなくてはならない。

    「多くの枝をもぎ取り、延びすぎたところは、切り揃え、その人の好みの通りに仕
    立て、咲かない花は、花壇の中に1本もないようにする」教育ではなく、「畑の中
    には、上手に育ったもの、そうでないもの、へぼなものもあったりして、大きさも
    大小、さまざまに不揃いなものだが、それぞれを大事に育て、良く出来たもの、そ
    うでないものも、食用の用に立つように育てる」教育を目指すべきである。日本人
    全員を優れた専門家にすることはできなくとも、日本人全員を善人にすることはで
    きるはずである。

    善人とは何か?政府の言うことに唯々諾々として従うお人よしという意味ではな
    い。旧文部省教科書に言う「自己と同様に他人の自由を重んずる気持ち」をもっ
    た、「好意と友愛と責任感とをもって万事を貫く」民主主義者のことである。
48.中等教育
  • 中学高校では文科省では多様性と選択を重視する教育をしようとしているようであ
    る。要するに中高生のうちから狭い範囲の専門に特化した教育をやろうとしている
    のである。

     中学高校では選択科目を増やしてはならない。大人になるために必要な一般教養
    を重視するべきである。ここでも主眼は専門的に優れた人材の養成ではなく、善人
    を養成することに置かなくてはならない。

     中学高校では次第に高次の道徳教育をするといいだろう。

    ベストセラーになった「ソフィーの世界」はノルウェーの哲学の高校教師の著作で
    あるという。簡潔にして初学者の興味を引き出すような非常に優れた西洋哲学史の
    入門書である。日本ではなぜ哲学教育をほとんどやめてしまったのか?なるほど哲
    学の分野で大発見が行われる可能性はもはやない。その意味で大学などで世界最先
    端の哲学研究をするというわけにはいかない。しかし、新発見がありえないという
    点では初等数学も同じことだが、初等数学教育の重要性は後述するが、今も数学教
    育が不要だと言う論はないようである。哲学教育も同じである。

     日本もまたアメリカにならって分厚い法律全書を知らなければ、世の中を渡って
    いけなくなりつつある。かつてわきまえておくべき規範は仁義礼智信の五つの徳だ
    けであった。金次郎はこれだけでどんな商法の専門家も及ばぬほどに立派に金融事
    業を運営した。今は中学生もちょっとした文庫本並みの厚さの校則集に通暁してい
    なければ学校生活を送ることができない。

     人生には何が起こるかわからない。起こったときにあわてないためには無限の事
    態に備えたマニュアルを暗記しておくことではなく、わずかな原則から、自分で考
    えて正しい結論を導く訓練をしておくことである。数学はこうした訓練に最適であ
    る。

     ところが私の息子の授業参観に行ったときに息子の数学教師はしたり顔で

    「お父さんの時代には数学は考える教科だったかもしれませんが、今は数学も暗記
    です。考えていたら時間内に解けずに合格できません。」

    などと言う。これでは何かわからないことに出会うと自分で考えるより誰かに答え
    を聞こうとばかりすることになり、オウム真理教の麻原教祖みたいなのに引っかか
    る若者が増えるはずである。私が教わった数学教師の口癖は

    「解答時間が二千年あったらどんな問題でも必ず解ける」

    だった。

    初等数学の問題はわずかな原則から、せいぜい千年の間に導き出されたものばかり
    である。天才たちが千年ですべての問題を解いたなら凡才の諸君でも一題ぐらい二
    千年もあれば解けるだろうというのである。

    ひとつの問題を何日もかけて考え抜く。何度も題意に適合する図形の作図をああで
    もない、こうでもないとやりぬく。すると目をつぶっていても眼前に円が浮かび、
    三角形が浮かぶようになる。テレビを見ているときも風呂に入っているときも、
    眠っているときですら、頭の片隅ではその問題のことを考えている。ある日食事中
    にはっと一本の補助線を引くことを思いつく。それが数学の問題の解き方だった。

    「腫瘍とは何かとたずねて拷問にかけたら、おそらく生きておれる者はあるまい」
    とはビスマルクの政敵として有名な政治家でもあった病理学者のウィルヒョウの言
    葉だが、医者はこの類いの答えのない問題を毎日患者から問われ続けている。私が
    この拷問に耐えて、どんな難問にもたちどころに答えを与える麻原教祖のような連
    中に引っかかることなく、いつか患者の疑問に答えられるようにと考え続けていけ
    る根性が身についたのはわが数学教師の薫陶の賜物である。

    人生でまだ一度も答えのない問題にぶつかったことのなさそうな、息子の担任の若
    い数学教師に、うちの息子は上級学校への合格のために学校に通わせているのでは
    なく、学問修行のために通わせているのだから、不合格になってもいいから難問に
    ぶつかったときに投げ出さない根性を鍛えるための数学をちゃんと教えてほしい
    と、私はよほどいってやりたかったが、息子の翌日からの学校生活がどうなるか不
    安で何も言えなかった。

    西洋哲学の基礎と同時に東洋哲学の基礎も教えるべきである。漢文を選択教科にす
    るなどもってのほかのことである。そもそも日本語の高次の表現のために漢文の素
    養は欠かせない。ルソーの日本への紹介者として知られる中江兆民は以下のように
    述べて漢文教育の重要性を強調した。

    「日本の文字は漢字にあらずや、・・・漢字を用ゆるの法を解せずして、よく文を
    作ることを得んや、真に文に長ぜんとする者、多く漢文を読まざるべからず。且つ
    世間洋書を訳する者、適当の熟語なきに苦しみ、みだりに疎率(そそつ)の文字を
    製して紙上に相踵(あいつ)ぐ、拙悪見るに堪えざるのみならず、実に読んで解す
    るを得ざらしむ。是れ実は適当の熟語なきにあらずして、彼らの素養足らざるに坐
    するのみ、思わざるべけんや」

    意味不明のカタカナ用語を粗製濫造する最近の官僚に読ませたい文章である。

    西洋哲学によって合理的精神を鍛えると同時に、東洋哲学の、修身が国を富ませる
    ことになり世界平和につながるという思想を広めなくてはいけない。格物致知から
    修身治国平天下を実践した上杉鷹山のような人物を何人も輩出するような教育を目
    指すべきである。

    英数国漢は今も中等教育の必須教科でなくてはならない。
49.高等教育
  • さらに次代の日本を背負って立つエリート教育のためにはかつての旧制高校のよう
    な一般教養専門校を設置するべきである。悪人に専門的知識を授けると大変なこと
    になるのはオウム真理教のサリン事件で示されたところである。どの分野の専門家
    となるにせよ、まずゼネラリストとして善良な大人になっていなくてはならない。

    自分の将来の専門分野を決める前に一般教養を身につけるのでなくては一般教養を
    勉強する意欲がわかない。青春の一時期、自分の将来がまだ定まらないときに、
    じっくりと自分の専門分野をどうするか考える時間があったほうがよい。

    私はここでは全寮制とするべきだと思う。飽食の日本で親元から通学しつつ、質実
    剛健の気風を養うのは困難である。世界に植民地を抱えたイギリスも貴族の子弟を
    女中や下男にかしずかれる親元で育てていては砂漠の渇きにもインドの暑熱にも音
    を上げない堅忍不抜のイギリス将校を養成することはできなかったろう。全寮制は
    エリートに堅忍の徳を身につけさせるために非常に優れた制度だと思う。

    こうした基礎の上に専門分野を身につけるなら、必ず豊かな実りをもたらすであろ
    う。およそ優れた発見は狭い一分野だけからの視点ではなく、広い視野から生まれ
    ることが多い。広くしっかりした基盤の上にのみ高く聳え立つ建築は可能になる。
50.行政改革
  •  行政改革も、制度機構をいじることを考えがちであるが、まず、官僚の気質を変
    えることが大切である。上役の顔色ばかりうかがい、国民の側を向かない官僚では
    どのような改革も無駄である。ここでも、最も大切なのは国民に対する愛情であ
    る。上杉鷹山が部下に与えた言葉、「真心は慈愛を生み、慈愛は知識を生む。真心
    があれば不可能なことはない」をかみしめるべきである。

     なにか、事件や事故があると、官僚はそれに対応するマニュアルを作ろうとす
    る。しかし、ほどなくその想定を超える事態が起こり、マニュアルの不備が指摘さ
    れ、さらにマニュアルは分厚くなる。結局そんな何十年に一度も起こらないような
    事態のためにマニュアルを丸暗記する人はいなくなり、マニュアルがほこりをか
    ぶったままでいるところに、今度はマニュアルで対応できることが起こっても、結
    局何もできないことになる。

     改革された教育で養成された堅忍不抜の民主主義者を高級官僚に起用すれば、い
    かなる事態に出会っても日本を最善の方向に導いていくことができるに違いない。

     しかし、権力には必ず出世主義者が群がる。これは避けることができない。少し
    でもこの害悪を少なくするためには思い切って官僚の給与を引き下げることが必要
    である。権力と同時に高給も手にすることができるとなれば、出世主義者だけでな
    く、拝金主義者まで群がることになる。

     給与が民間に比べて低ければ優秀な若者が官僚になりたがらないと言う議論は、
    何をもって官吏の優れた資質と言うべきか、はきちがえている。官吏にとって重要
    な資質は、知的才能ではなく、国民に対する慈愛である。ルソーの言葉で言えば
    「良識、正義、潔白」である。国民が困っているときには自分も一緒になって悩む
    姿勢があれば、必ず国民の協力も得られるし、いい知恵を出してくれる人も出る。
    自分が優秀だと天狗になって、自分の考えを国民に押し付けるような官僚ほど国民
    にとって迷惑な存在はない。

     それでも、出世主義者は地位に群がるであろうし、汚吏は絶えないであろう。汚
    職が官僚の給与が低いせいだなどという議論はわらうべきものである。現代社会は
    お金のある者にますます物欲をかきたてるようにできている。むしろ国家公務員は
    地位が上がるにしたがって給与が減るぐらいでよいかもしれない。それでも地位を
    利用して公費でオペラ見物に出かけたり、自分の趣味の美術品を公邸に買い込んだ
    りする事例は絶えないに違いない。至善にとどまるには日々の努力が欠かせない。
    汚吏の追放は民主主義の日々のメインテナンスとして行うしかない。

     高給希望者は民間に行き、薄給にあまんじて国民に奉仕したいという志のある者
    のみが官吏になってくれたほうがよい。この志さえあれば必ず真に国民に役立つ役
    人になれる。
51.農業改革
  • 産業のうちでも特に農業について述べたい。

    日本の将来が先端工業分野にかかっていることはもちろんである。現政府もこの分
    野を特に重視している。この路線は当然である。大いに進めるべきである。

    しかし、農業を置き去りにしてはいけない。農業は環境問題と密接に関連している
    ばかりでなく、人間の心の潤いに大きな役割を果たしている。農業従事者の高齢化
    は危機的なレベルになっている。

    政府も日本的景観と治山治水対策のためにも農業が大切であることは認めている。
    そこで国際競争力を有する農業の担い手を養成しようと掛け声を上げている。

    しかし、どんなに農家の規模を大きくしようと、日本の気候が米作においてベトナ
    ムよりも不適当であり、畜産において米国よりも不適当である以上、完全な自由競
    争で太刀打ちできるはずがない。農業はむしろ兼業によって生きる道を見出すので
    はないだろうか?

    機械化、省力化の進んだ現在、小規模なら会社員が片手間にでも農業を営むことが
    できる。これなら会社員としての給与で生計を立てることができ、農産物からの収
    入は少なくともよい。

    農業を教育と結びつけ、失業者対策と結び付けられないだろうか?

    農業は勉強を生きたものとするために非常に有益である。そしてかけた苦労が実り
    となって報われる経験が大切である。高齢化の進んだ農家などの協力で中高生に農
    業体験をさせられれば有益ではないだろうか。

    かつて農家の次、三男は都会に働きに出てどうしてもうまくいかないときには故郷
    に帰って農民に戻った。今は戻る故郷がないことが失業問題をこじらせている面が
    ある。後継者がいなくて荒果てようとしている山間の農地などを失業者対策に使え
    ないだろうか?

    こういうことを考え出すと現場を知らない私などおそらくとんちんかんなことを考
    えているのだろう。しかし、離れているからよく見えることもあるはずである。鷹
    山が米沢の気候に合った作物を米沢で加工して販売することを思いついたのも、彼
    が米沢でこれが当たり前だと思い込まれていたことをよく知らなかったことが幸い
    したと言えるだろう。

    教育と失業対策に農業を生かすというアイデアは悪くないように思う。あとは現場
    でもっと血の通ったものとすることができるのではないだろうか。
結語
  •  そのほか社会保障に国民相互の助け合いを組み込むこととか、遊興のための融資
    と新規事業のための融資とに何らかの差別を設けて新規事業を特に優遇するとか、
    金次郎や鷹山の改革から現代に生かせそうなことはいくらでもある。

     だが、とにかく根本において善人で働き者の日本人を復活させることさえできれ
    ばきっとうまくいく。私はこれら内村鑑三が「代表的日本人」としてあげた3人の
    偉人伝を読んで、日本人が日本人らしくなくなっていることが現在の危機の根本で
    あり、米国式グローバル化を拒否することが危機を脱するための第一歩であると確
    信する。
参考文献
  •  これを書いている間、個人メールでも励ましのメールを頂戴し、大変励みになっ
    た。そのなかに、実際童門氏の著作を読んで私の書き込みの部分が見当たらないと
    いう方もいた。私のつたない書き込みをそこまで読み込んでくださる読者がいたこ
    とに非常に感激した。ここまでお付き合いしてくださってすでに飽き飽きしている
    方も多いとは思うが、興味のある読者のために参考文献を挙げておくことにした。
    どこにどれが引用されているかの注釈まではつける余裕がないことをお許しいただ
    きたい。



    参考にはならなかったが執筆のきっかけになった本

    早房長治「この国の処方箋」(ウェッジ)

    基本文献

    童門冬二「小説 二宮金次郎」(集英社文庫)

    同「小説 中江藤樹」(人物文庫)

    同「小説 上杉鷹山」(集英社文庫)

    内村鑑三「代表的日本人」(岩波文庫)

    比較文化論

    内村鑑三「余はいかにしてキリスト信徒となりしか」(岩波文庫)

    新渡戸稲造「武士道」(岩波文庫)

    和辻哲郎「風土」(岩波文庫)

    呉善花「私はいかにして日本信徒となったか」(PHP文庫)

    金 完燮「親日派のための弁明」(草思社)

    中野孝次「日本の美徳」(光文社)

    民主主義

    ルソー「社会契約論」(角川文庫)

    教育論

    ルソー「エミール」(岩波文庫)

    但野正弘「黄門様の知恵袋」(国書刊行会)

    奥山京助「少年剣道指導講座」(スキージャーナル)

    医療政策

    坪井栄孝「わが医療革命論」(東洋経済新報社)

    水野肇「誰も書かなかった日本医師会」(草思社)

    官僚腐敗

    天木直人「さらば!外務省」(講談社)

    哲学

    シュヴェーグラー「西洋哲学史」(岩波文庫)

    ヨースタイン・ゴルデル「ソフィーの世界」(日本放送協会)

    西田周作「観念論科学の批判」(光陽出版)

    森信成「唯物論哲学入門」(新泉社)

    進化論

    ダーウィン「種の起源」(岩波文庫)

    漢文

    藤堂明保「チャート式漢文」(数研出版)

    島田鈞一「論語全解」(有精堂)

    山中鹿之助

    南條範夫「出雲の鷹」(文春文庫)

    乃木希典

    司馬遼太郎「殉死」(文春文庫)

    同「坂の上の雲」(文春文庫)

    中江兆民

    幸徳秋水「兆民先生」(岩波文庫)

    ウィルヒョウ

    赤崎兼義「病理学総論」(南山堂)

    カエサル

    塩野七生「ローマ人の物語4・5ユリウス・カエサル」(新潮社)

    全般

    マイクロソフト エンカルタ

    参考ビデオ

    「上杉鷹山」(NHKソフトウェア)



    参考HP

    中江藤樹

    http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h15/jog324.html

    http://www.biwa.ne.jp/~adogawa/nakaetouzyu/index.html

    二宮金次郎

    http://lgportal.city.kakegawa.shizuoka.jp/life_long/Kakegawa36/scene08.asp

    http://skura.hp.infoseek.co.jp/ni/

    http://www2.chokai.ne.jp/~assoonas/UC96.HTML

    上杉鷹山

    http://www.asahi-net.or.jp/~me4k-skri/han/mutudewa/yonezawa.html

    http://ftown.boo.jp/takahashi/houkoku/youzann.htm

    http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h12/jog130.html

    http://www.president.co.jp/pre/19980400/01.html

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    黒井堰

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    http://www.shirakawa-kyo.jp/iide.html

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    飢饉と異常気象

    http://www.withe.ne.jp/~ted/history/kinsei/setsu/files/kikintokishou.htm

    結城哀草果

    http://www.yomiuri.co.jp/tabi/japan/19980514sc11.htm

    細井平洲

    http://www.jmca.net/booky/takeshita/ryosyo26.html

    http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h12/jog144.html

    http://www.sunfield.ne.jp/~hikokuro/

    http://www.geocities.jp/nagaura2/hosoiheisyu.html

    http://www.city.tokai.aichi.jp/~kyoiku/kinenkan/hosoiheishuu/kotoba.html

    J・F・ケネディ

    http://www.whitehouse.gov/history/presidents/jk35.html