武見太郎氏についてのページ
「ケンカ太郎」の棺を覆うてから (出典不明157頁昭和63年 おそらく文藝春秋)

またの名は「悪太郎」「ヤミ将軍」……。テレビでキャスターを「もっと勉強しろ」と怒鳴ったのは有名。が、その彼が日本の医者を「欲ばり村の村長」と蔑視していたのは知られていない。  (保阪 正康)

 威嚇的な言動の裏にあるもの

 武見太郎という男がいた。内科医だった。明治生まれの個性の強い男だった。そして日本医師会の会長だった。昭和34年4月から57年3月までの25年間という4半世紀。戦後日本のあらゆる組織で、これだけの期間、指導者でありつづけた男はいない。日本の戦後の医療は、良くも悪くもこの男によって担われてきた。
 その間、この男ほどマスコミでの評判が悪かった男はいない。武見に冠せられた形容句は、どぎついものばかりだった。ケンカ太郎、ワンマン、ドン、怪物、悪太郎、わからず屋、ヤミ将軍……。武見の例もマスコミを嫌った。「昔陸軍、いまマスコミ」という表現はまだおとなしいほうだった。「マスコミは責任をとらない」「独断と偏見のかたまり」
 「不勉強で野卑」「揚げ足とりとスキャンダル」。マスコミの取材に応じることもめったになかった。厚生省記者クラブの記者たちをも「いかがわしい適中が多い」と断言してはばからない。マスコミと武見の関係は、まさに「天敵」という表現がふさわしかった。
 武見の時代、日本医師会の本部(東京・お茶の水)正面には、「無用の者、立入禁止」という貼り紙があった。まるで武見が、マスコミにケンカ腰でむかいあっているかのようだった。
 私は、昭和50年代半ばのテレビでの放映シーソがいまも忘れられない。テレビ局の報道番組で、ニュースキャスターが、武見にインタビューをはじめた。「国民を代表して……」という前口上で、昭和46年の保険医総辞退について、上すべりの質問をはじめた。たしかに底の浅い薄っぺらな質問内容だった。突然、武見が怒りだした。「もっと勉強してから来い」というのであった。あのドスのきいた声、そして大きな目でキャスターをにらみつけながらどなった。「もう帰れ」とまでいった。その一部始終が放映された。
 もうひとつ別なシーンも覚えている。厚生省で、武見も要員になっている審議会が開かれた。そこに新聞記者やテレビカメラマンなどが集まっていた。武見は会議に出席しようとやってきて、この人波を見て怒りだした。
「約束とちがうではないか」という意味のことを、厚生省の役人にいった。
「僕は帰る」といって戻りだした。厚生省の局長と覚しき人物が、日比谷公園の中まで武見のあとを追って、「先生、どうか出席してください……」とモミ手をしながら懇願していた。武見はそれに一切とりあわなかった。
 武見が国民に見せる顔は、このような凄味にあふれたものばかりだった。権力的、無愛想、威嚇、冷徹、そして人を人とも思わぬ傍若無人ぶり。マスコミが呈した形容句は、その限りでは国民の″武見像″に符合し、増幅していった。なんとも憎々しげな存在として、国民の間には受けとめられていたのだ。
 武見が逝ったのは、昭和58年12月20日の未明だった。がん細胞が内臓に広がっていた。4年余に及ぶ闘病生活で諦観のなかで79歳の生を終えた。武見の棺が覆われてから4年半という時間が流れている。医師会長という職をはなれてからは6年の時間が流れている。
 その間、日本の医療はどうかわったか。医療の荒廃はますます広がっているのではないか。いまや19兆円にも達する国民医療費、老人医療の哲理も理念もない延命医療、患者の苦痛を無視した終末医療、錬金化に慣れきった悪徳医師の増大。保険医療の矛盾である医療技術の格差拡大、それに予防医学の軽視。プラスの事態をはるかに上回るマイナスの事態がはびこっている。医療の土台にある命題はいっそう形骸化している。人間の生命が時間という量に還元されるという退廃が、抜きさしならぬはど深刻になり、生の質がまったく問われないというアンバランスを生んでいる。
 武見が担った医療制度は、矛盾を帯びたかたちになっている。医療現壊は、より悪化し、よりアナーキーになっている。このような事態にメスをいれる理念や信条はどうなったのだろうか。実は、武見太郎その人を深く検証していけば、武見のなかにこそこの理念や信条が存在したのではなかったか。武見太郎という人物を、私たちはその心奥にまではいりこんで理解してみると意外なことがわかるのではないか。武見が偽悪者ぶった、その背景にその哲理が隠されているのではないだろうか。もしそうなら、それをさぐりあててみようというのが、本稿の狙いである。
 武見は、医師という職業をこの世でもっとも崇高なものとし、もっとも尊敬されるべき職能と考えていた。武見の79年の人生に、一本の芯を見いだすとすれば、この認識だけであろう。実際、「医師というのは……」という大局論は武見のもっとも好む話し方だ。「医師というのは学問や研究に生きる人間だ。だからこれに敵対する人物や組織とは徹底的に戦う」という台詞は、武見の得意とするものだった。かつて大宅壮一は、武見太郎を評して、「武見太郎という名をきけば、沸々か何かを退治した豪傑を連想するが、会って話をしていると、科学を看板にした教祖、近代的な魔法使いという印象をうける」と書いた(『文藝春秋』昭和33年夏季増刊 号)。武見の医師聖職説は、近代科学をもれなかったのは、武見の心中をうかがっても残念だったろうという思いが感じられるし、なにより国民(患者)の側からも画竜点晴を欠くの感が拭いきれないのだ。
 武見を直接知る人に取材を進めていくと、異口同音に指摘することばがある。
 「武見さんは多面体です。そのときどきの発言や意見を、ある一定のワクのなかからでてきたとだけみることはできないのです。そのときどきにドラスチックな発言をしているので、誤解を受けている面があります」
 この意見は、武見とは30年余も交際している先の前田昭二や、武見に教えを乞うという名目で20数年会いつづけてきた東京・紀尾井町の岩井クリニック院長の岩井宏方も強調している。いやかつての医師会の理事たちでさえ、そういう意見を述べているはどだ。折り折りに矛盾した言をいくつも吐いているというのである。
 医療の担い手である医師を賛えることばだけを集めていけぼ、ヒューマニストにもなる。官僚を罵倒するときの際限ないどぎつさを拾いだせば、まるでファッショ政権下の指導者のような像をえがくことができる。歴代の厚生大臣を無知無能呼ばわりするときの雑言を並べてみれぼ、政治的反対党のラディカルな表現よりも厳しい調子になる。
 歴代の厚生大臣に浴びせた悪罵を抜きだしてみると、それは一目瞭然である。
 「人間的倫理感ゼロの男」「ボンタラな男」「無為無策の大臣」「ナチスのアイヒマンと同じタイプ。絶対に許せない」「不正直で官僚の走狗に終始した男で精神病者」「ハレンチ大臣」 「史上最低の大臣」「無脳症みたいな奴」などなど。「二流三流の伴食大臣に医療行政がわかるわけはない」「大学不名誉教授を集めて審読会をつくり、それで官僚は国民をあざむいてきた」といったいい方もする。厚生大臣が、医療行政について教えを乞いたいと頭を下げると、「私はあなたの家庭教師ではありません」といってのける。
 とういう発言を並べてみると、武見は狭量な権力主義者にかわる。
 さらに、「保険を使う奴は超一流ではない」「氏より育ち」という具合に、他人を一流とか二流、さらに育ちの悪さといった表現さえもくり返す。武見には、抜きがたく貴族趣味があったというが、それを裏づける台詞とて拾いあげかことがでぎる。いやエキセントリックな表現だけを意図的に抜きだして、精神異常者では……といったいい方をする反武見派の医師もいるほどだ。
 自民党との診療報酬引き上げでもめたとき、武見は怒りだして「もうこんな政党は相手にしない」といいだした。すると自民党の代議士のひとりが、「それではあなたが自分で政府をつくってやればいい。そんなことができるのか」とかみつくと、急に武見はおとなしくなる。「あんたは面白い人だ」と親しくなるということもあった。佐藤栄作は、首相として、なんども武見と交渉した経験をもっているが、なんどか会っているうちに、「武見というのは二重構造の人間だ」と気づいたという。言葉の強さと行動のアンバランスが見ぬかれてしまった。
 武見の医師会会長としての動きを見ていくと、彼の前半生が見事なまでに投影しているのである。

  自伝のなかの不透明な部分

 武見は、明治37年3月7日に京都で生まれている。父母とも新潟県長岡市の出身である。生後、まもなく東京に移る。父は、実兄の影響を受けて日蓮宗の信者であった。明治21年にどうしてもアメリカに渡りたいというので、家族の助力を得て、カリフォルニアに赴く。カリフォルニア大学などで教育学を修めて帰国、日本に戻ってからは教師生活にはいっている。武見の母も篤学の人で、向学心を押さえきれずに、新潟の山村から東京にでてきて、東京女高師で学んだ。女高師を卒業後は、京都府立第一高女の教師となって、武見の父と結婚、太郎を生んでいる。
 武見のなかに向学心、宗教心、そして度胸のよさが育くまれていったのは、この両親の教育のためであったろう。弟たちが証言しているところでは、幼少時から頑固な性格があり、たとえ自らの失敗でも決してすぐには認やず、相手を責める傾向があったというエピソードが、雑誌などで紹介されている。
 開成中から慶応普通部にかわり、そのまま慶応の医学部にはいる。普通部時代に病で倒れ、そこで科学書を読み、医学への関心をもった。あるいは普通部時代の教師が、細胞分裂の様子を顕教鏡で見せてくれたことが刺激になって医師の道にはいったともいわれている。医学部時代は、医学の勉強の傍ら、仏教への関心も強めている。文学部学生だった友松円諦らと共に仏教青年会を結成し、教典の読破にあたっている。
 医学部を卒業したあと、内科の医局にはいった。昭和5年のことだ。教授の西野忠次郎の教室に配属されたのだが、武見は西野とはまったく合わない。西野は免疫学が専門で、経験別に裏打ちされた治療を行う。ところが武見は、新しい医療機器を用いて、研究を主体にしつつ、独自に治療法を開拓していこうとの考えをもっている。一説では、医局のなかでしばしば酒を飲みながらの談論風発の空気になじまない体質をもっていたともいう。研究肌の武見は、医療の世界の職人的空気に抵抗したともいえる。
 西野との対立は、博士論文をめぐつてといわれている。武見が提出した論文を、西野は、「感情のうえからも審査することはできない」とはねつけた。武見も、それではと、博士論文をひきあげた。武見は、「自分の尊敬しない教授から学位をもらわなかったことは、自分の誇りである」といいつづけていた。西野に辞表を叩きつけて慶応を去ったという。武見の人物論は、一様にこの辺を劇的に書いている。武見の反骨を示すエピソードというわけだ。辞表には「一身上の都合に依り……」と書かずに「学問上の見解を異にする」と書いたので、西野は「書きかえろ」と怒ったという。武見はそれを拒否したために、慶応全体が大騒ぎになり、医学部長や塾長まででてきて書きかえを迫ったとされているが″武見、慶応の医局を去る″は若き日の武見の反骨を示すクライマックスになっている。
 しかし、武見に関する膨大な人物論、それに著作、そして武見自身の著作を丹念に読んでいると、なんとも不思議なことに気づく。武見が西野内科の医局を辞めた年月日がまったく明らかにされていないのだ。武見自身がまとめたと思われる年表にさえ、昭和12年の項に「慶大を辞め、理化学研究室に移る」とあるだけだ。武見は、いつ慶応を辞めたのだろうか。なぜその年月日をあきらかにしないのだろう。積み重ねると十センチ近くにもなる武見論のなかで、ただのひとつのレポートもこの年月日を書いていない。
 私は本誌で『自伝の書きかた教えます』を連載したが、そのときに″あることを隠すためにしばしば年月日が伏せられる″というケースになんども出会った。武見自身の談話や自伝にもそれが感じられるのだ。
 武見論を読んでいて、ささいな事実からその年月日が推測できるのだが、それは昭和8年のように思える。(武見に辞表の書きかえを迫った塾長林毅陸は昭和8年に塾長を辞めている。さらに医局にはいって、3年ていどの研究期間で博士論文を書くのが慣例だ。しかも農林省共済会珍療所に通い始めたのはこの年で、農林官僚や農政学者とも知りあったらしい。全国の農村を回って診療にあたったという。)
 理化学研究所(理研)にはいったのは、昭和12年だから、ほぼ4年間、武見の動きは空白になってしまうのだ。反骨を示したあとの4年間、武見は曖昧なままにぼかしている。あまりにも反骨が際だつだけに、この四年間の空白は奇異な感じを与える。武見神話のなかにぽっかり空いた隙間に、武見はどのょうな日々をすごしたのだろう。もし西野と前述のように徹底した戦いを行ったら、武見は人生を賭けた戦いを行ったことになる。医学部では、″神″のような存在の教授に正面から抗するのは、医師、研究者としての途が断ち切られるだけではなく、どこの病院でも雇ってはくれない。回状が回されてしまうからだ。
 武見がどのようなツテで理研にはいったか、その経緯もあまり明確になっていない。武見は、そのとき33歳、後年「仁科先生に勧められて理研に入った」というが、理研との接点はどの書も明確にしていない。思うに、武見はこの4年間、人にいえぬほどの辛酸をなめたのだろう。その辛酸は思いだすのも厭なほど辛かったにちがいない。
 理研は子爵大河内正敏の主宰する民間研究所で、ここは大学を卒業したばかりの俊才を集めて自在に研究活動を行う場だった。理研は、当時の理科系卒業生のあこがれの研究機関で、ここに武見がはいれたのも、相当強いヒキがあり、その実力が認められていたからであろう。
 武見のいう、仁科先生とは仁科芳雄のことで、当時47歳。スウェーデンやパリに留学して原子物理学を修めてきた。日本に戻ると、その研究室には原子物理学者を揃えて、当時世界的な流行となっていた原子核の研究を行っている。武見は、仁科のもとで中性子の研究をつづけ、医学と医療機器の開発にとりくんでいる。ここでは心電図の開発に成功し、武見は国産化初のベクトル心電計をつくっている。
 だが武見にとって、理研に籍を置いたのはふたつの意味で僥倖(ぎょうこう)だった。ひとつはここで原子物理学者たちと知りあい、連日のように討論にあけくれたことだ。物理学者のなかには、湯川秀樹、朝永振一郎、茅誠司、それに菊池正士、中谷宇吉郎などが揃っていた。のちに、武見は、講演の折りに原稿なしでつねに時間内に話したいことをすべて話し、きちんと終えるくせをもてたのは、彼らとのディスカッションのためだったといっている。もうひとつは、理研では速効的な成果がでなくても自由に自分の思うとおりの研究ができたことだった。それだけ自らのテーマを深めることができた。実際、武見はこのときに丸善から洋書をとり寄せて、医学だけでなくあらゆる書に目をとおしたといわれている。
 武見は仁科を心底から尊敬している。そのことをあらゆる対談でもくり返し述べているほどだ。この事実は、次のように解するべきだろう。
 仁科は、太平洋戦争が始まってから、理研に集まっている優秀な青年学徒が戦争で死ぬことに不安をもった。戦争が負けても、科学のレベルは欧米並みに引きあげておかなければならないと考えた。徴兵を免れるためと研究費を稔出するために、仁科は、ときに陸軍と協力関係にはいる。原子爆弾の研究、その製造開発を目的にしたプロジェクトチーム(「二号研究」)も引き受ける。陸軍とのわずらわしい交渉は、仁科が受け持ち、若い学徒たちには自由に討論させ、自由に研究活動を行わせた。武見に限らず、湯川にしても朝永にしても、あるいほ嵯峨板遼吉といった原子物理学者たちが、仁科を慈父のように慕っているのは、こうした事実を知っているからである。

  GHQにもの申す明治人の気骨

 武見は仁科を尊敬する分、軍人たちの横暴で非常識なふるまいに強い反感をもっている。武見の三男敬三(東海大助教授、ニュースキャスター)によれば、武見は軍人にだけは終生好感情をもたなかったという。軍人の専横時代に、官僚たちがいかに彼らにこぴへつらったかも目撃していたはずで、軍人と官僚への反感は、武見を理解するうえで主要なカギになっている。
 慶応医学部時代に、武見は、小泉丹教授をつうじて岩波書店の岩波茂雄と知りあっている。理研にはいってからは岩波のルートで、女婿の小林勇、西田幾多郎、安倍能成、和辻哲郎を知り、その主治医にもなっている。作家の幸田露伴にはかわいがられて主治医になっていた。
 理研に籍を置く傍ら、昭和十四年東京・銀座の教文館ビルに武見珍療所を開設している。これは岩波茂雄に、資金面の援助を仰いだという。
 武見は、昭和16年に元宮内大臣だった牧野伸顕の孫秋月英子と結婚している。牧野の主治医であり、その縁での結婚だった。この結婚以後、武見は旧華族へも人脈を広げ、武見珍療所には近衛文麿首相さえ訪れるようになった。
 武見は、こうしていくつもの人脈の輪をもつに至った。武見の個性的な資質が注目されたともいえるが、一面では、武見の向上心が周辺の人びとに評価されたといいうる。
 牧野伸顕の女婿がのちの首相となる吉田茂だが、吉田と武見は互いに性格的にも共通点がありウマが合った。戦後の吉田内閣誕生時には、武見が吉田の密使となって大臣候補者に会いに行き、その意向を打珍して歩いたというのが定説になっている。
 つけ加えれば、武見が述懐している「回想」では、終戦前後に自らが尽力して政府の政策にも影響を与えたかのようにいうが、それは歴史的事実を仔細に点検していけば、必ずしも当っているとはいえない。武見自身が、事実をいささか自らの側にひきつけて話しすぎの感がある。この点については詳細な検証が必要になるだろう。
 医師武見太郎は、戦時下の昭和18年に長男の死にであっている。
 長男は生まれてまもなく、肺炎に罹った。武見は二晩徹夜をつづけて、看病にあたったが病死してしまった。その遺体の横で武見は一晩原書で小児科の書を読んでいた。息子を逝かせてしまった悲しみを医師という目で耐えていたのだ。小林勇が、悔みに行ったとき、武見は布団にはいったままの長男の遺体の脇でモーニングを着たまま、暑気を追い払うかのようにいつまでも団扇であおいでいたという。武見の心理の底に、長男の死は影を落としているように見える。そのことを決して口にだしていないが、医師である自らの力の足りなさを長男に詫びていたというべきかもしれない。
 武見は戦後まもなく理研もはなれている。
 GHQは、理研の科学者たちが原子核エネルギーの実験につくりあげていたサイクロトロンを海中に放棄したのだが、それを怒っての退職であった。原子力を利用する医学をテーマにしていた武見には、手足をもぎとられるような事件だった。もっともここでも理研退所の時期や動機がもうひとつ明確でない。サイクロトロンが放棄されたのと、昭和25年に東大教授の柿沼昊作(こうさく)に勧められて日本医師会の副会長になるまでに、四年余のブランクがある。武見はインタビューなどで「遊んでいた……」といういい方をしている。
 日本医師会の副会長になると、GHQとしぼしば対立している。強引にアメリカの医療政策を実施しろと要求してくる衛生局長サムスに、武見は根強く抵抗している。ここでのやりとりで、サムスが、「戦勝国のいうことを聞け」と脅したら、武見は、「戦争に負けたのは軍人であって医師ではない」と開き直ったのは有名な話だ。
 GHQの占領下での原風景に、武見はいつまでもこだわりつづけている。そのこだわりのなかで大きな地位を占めているのは、反官僚という強烈な意識だ。武見は、次のような話を息子たちに語っている。
 「厚生省の局長とか部長といった連中が進駐軍のエライ奴らに女を世話し、酒を飲ませたりする。医師会の副会長として役人の、進駐軍に対する卑屈なへつらいや賄賂のやりとりの現場をいやというほど見せられて、うんざりしたよ」
 武見の前半生のなかにひそんでいるエピソードを以上のようにいくつか抜きだしてみると、人間的な核がすぐに浮かんでくる。武見太郎という個人は、決して多面体ではなく、実に一本気な感性をもった固まりではないか、という気がしてくる。
 この感性は、明治人のもつそれであり、多くの人がその感性を摩滅していくとき、武見は逆にそれを前面に押しだして生きてきたのだ。真面目でストイックであり、予見性をもち、人脈の輪をいくつも重ね合わせて生きてきたという人間の像である。その核を改めて並べてみることにしよう。
 宗教心に富んでいる。武見は終生仏教書を手元からはなさなかった。日蓮宗の信者として、日鑑上人を畏敬し、ときに宗教的な目で予見力を発揮した。科学的思考をもつ訓練を積んでいる。これは理研での科学者たちとのコミュニケーションによって培かわれた。同時に、武見は西野と衝突したように医学を新鋭機器とかみあわせて近代的医療を主張する側に立っていた。メディカルエレクトロニクス(ME)の先駆者である。吉田茂やその側近たちをつうじて、政治の内幕を垣間見たのも武見の核になっている。政治はときに裏切り、恫喝、それに追従などあらゆる人間の感情を含めたものだが、それをすばやく見抜いている。前述したように、武見が恫喝を用いたのは、この教訓を信じたものだ。
 武見は、酒も煙草も好まない。女性関係もない。金銭上のトラブルもない。スキャンダルには一切無縁であった。25年間、医師会会長として権力を維持できたのは、この清潔さこそ大きな要因になっていた。だからこそ人間的な熟成に欠けるタイプに示す嫌悪感は、自らのストイックな資質から出発している。
 武見診療所では、武見は治療費をとらなかった。いや、「あなたの気持で……」という診療姿勢だった。富裕な人たちが袋に現金を包んできても、それを開けずに家族にわたした。それを見ることによって、金額の多寡がわかり、カネをもってくる患者を待つようになるのを恐れたのである。戦前、占領下、医療費は決して安くはなかった。患者は少々の疾病では病院になど行かなかった。武見のように、患者の懐具合に委ねるという医師はそれほど多くはなかった。
 武見診療所は、有力者が集まるだけに治療費は高いといわれた。実際、華族や文化人、それに学者たちは、相当のカネを包んだであろう。しかし、半面で銀座周辺に住む庶民もまたこの珍療所にかよい、そしてわずかの現金で治療を受けていた。
 人の生死に関わる医療は、社会的富の再分配機関である。ひとたぴ疾病に罹れば、富裕者からカネをとり、医師はそれによって生活を成りたたせ、貧者には無料で治療にあたる。赤ひげの思想とはこのようなものだが、武見にはそのような意思がすくなからずあったともいえる。自分の段階で、社会的貧富の格差を是正していく。そういう使命感が、武見にはあり、医師会会長として〃国民皆保険〃制度を進めながら、自らの珍療所では最後ま
で自由珍療をタテマエにしていたのは、そのような経験別にもとづいていたのだろう。
 武見は、医師会会長の激務にありながら、毎週月曜日と金曜日の午前中は珍療所にでかけ、2時間ずつ患者の診断にあたったという。そこには、貧者が駈けこむ場としての使命感といった姿勢も容易にみてとれるのだ。

  診療報酬という名の打出の小槌

 医師会会長としての武見の役割は、つねに診療報酬の引きあげにあった。
「開業医は、厚生省の誤まれる低医療費政策によって奴隷のように働かされている」というのが、武見の口癖であった。厚生省の保険制度は、基本的には逆だちの状態にあるということだった。
 厚生省は、つねに値上げを渋る。その意を受けた中央医療協議会のメンバーが、医師会の値上げ攻勢に対抗する。この図式を意識して、武見はつねに恫喝をくり返しつづける。
 国民皆保険制度発足以来、現在までの28年間の歴史はそのくり返しだった。
 診療報酬の引きあげを認めさせるためには、武見は前述のように保険医総辞退、一斉休診でも、飛行機からビラを撒くことでも、弱腰の医師会委員の首をすげかえることでも平気で行う。目的を達成するためには、それこそ何でもやってのける。この強引さは、任意団体である医師会の実力を政治的勢力に仕立てあげることに成功している。
 だが、もうすこしくわしく見れば、武見はある時期にショック療法を行って実をとっている。
 たとえば、保険医総辞退という戦略のあとに、はからずも救急医療の重要性が認識され、そのシステムが完備していくといった具合だ。保険制度のもとで、あらゆる検査がコミになって一括して診療報酬となっていると批判する一方で、そうなら完全診療月間運動と称して患者の大半に肝炎の検査を行えとも指示する。近い将来、日本の食生活や衛生環境のもとでは肝炎がふえると予想したからだ。のちに、武見は、『21世紀は慢性肝炎が国民病になる』という書をあらわして警鐘を鳴らしている。
 昭和35年、40年、46年と武見は診療報酬の引き上げ時にはゴリ押しをくり返してきた。9パーセント前後の伸びは、医師の収入を大幅にふやすかわりに、悪徳医師たちの巧妙な請求を生んだ。
 武見は、高度成長下で診療報酬という医師の打出の小槌をふりつづけた。そのために国民医療費は膨脹に膨脹を重ねていった。医師たちは、武見太郎という使命感あふれる医師をかついで既得権を拡大していった。時代がかわり、国民医療費の膨脹は、官民あげて歯止めをかけようとする事態になってきた。厚生省内部には、武見批判派が広がっていき、たとえば保険制度の研究家で、国民医療費抑制策の提唱者である吉村仁元事務次官(故人)のように、「自分は医療費を押さえるためには、鬼にでも蛇にでもなる」と高言し、武見の恫喝に公然と反旗をひるがえす官僚もでてきたのである。
 武見医政は、昭和50年代半ぽになって明らかに壁にぶつかった。診療報酬をひきあげて、医師の経済収入をふやすだけの路線は曲がり角にきたのである。武見は、昭和55年にがんと診断され、この期に第1回の手術を受けたのは象徴的である。武見の政策は名実共に終焉期を迎えたからであった。
 日本の医療は、いまいくつかの点で荒廃の極に達している。本誌でなんども紹介したように老人医療を行っている病院の退廃には、この時代のダーティな部分が一挙に吹きでている。カネもうけに馴れきってしまった医師たちの精神的な退廃は、″欲ばり村の村長さん″から金権万能の医師を生み、その医師たちによって支えられている新設私立医大では医学教育は国家試験の予備校にすぎなくなっていを。これらの現象は、すべて医療公害といっていい。
 高度成長の影の部分で公害や環境汚染が進行したように、医療がモノ盗りとカネもうけの手段と化したために生命は実にモロい存在になっている。国民医療費の膨脹によって得られた事実は、長寿国世界一というおぞましい現実であった。
 武見医師会会長の功績は、以上のような医療の現実も生んだ。それは一見すると、武見の医療行政の手腕の結果によって引き起こされたとだけ片づけることもできる。実際に厚生省内部には、武見亡きあとの医師会を己れの政策達成のための下部機関に見たてる動きもでている。そのためには、武見をある時期の医療政策の根幹を崩した張本人と見たてておいたほうが都合がいいとの声もでているほどだ。
 しかし、武見太郎という人物の意図していた医療状況とは、はたしていまのようなものだろうか、という疑問はつねについて回る。
 武見は、医師は「プロフェショナル・フクーダムだ」とくり返した。きわめて古典的な言い方になってしまうが、医師という「自由人」はあらゆる機関や人物の下僕になってはならぬとも説いた。いまは厚生省や国の医療行政の下僕として利用されていると怒った。いや日ごろの研究、新しい知識の吸収を怠れば、日常の惰性の下僕にもなると説いた。それが正確にはなにひとつ理解されていないのが、いまの医療荒廃の側面から浮かぴあがってくるのである。
 「武見先生の医療の方針は、結局、4つの点に尽きています。昭和36年の保険医総辞返のとき、田中角栄政調会長に示した4つの条件がそれです。武見先生は、医師会の会長としてこれを忠実に実行しようとしてきたんです」((財)生存科学研究所理事、元日本医師会理事、中山昌作)
 この4点とは、(1)医療保険の抜本的改正、(2)医学研究と教育の進歩と国民の福祉、(3)医師と患者の自由な人間関係、(4)自由経済社会の診療報酬体系の確立、である。これをかみくだくと、組合健保と国民健保の一元化であり、医師のレベルを高めて国民の福祉に貢献するようにとの願いであり、医師と国民の間に信頼関係をつくろうという主張をあらわしたものであった。とくに組合健保のあり方には、終生強い批判をぶつけてきた。きらに、健康保険制度の出来高払いに対する批判、これではまるで医師は医療を物品販売しているようなものだという怒りをあらわしたものだった。
 結論からいえば、昭和36年に武見が考えていたこの4項目は、武見の在任中になにひとつ実現されなかった。こういう理念は、すべて経済的利益の拡大という方向だけが模索された結果、あえなく消え失せてしまったのである。武見の実行力をもってしても、理念のひとつも実現できなかったことは何を物語っているのだろうか。医師たちは、武見を見事なまでに利用しつくしていたということだろう。武見の意識していない部分で、武見の政治力、実行力、予見力を利用し、そして果実だけをもぎとった。武見は、そのことを見抜れていなかった。武見は自らの信ずる方向で、自らの理念を鼓吹しようとして破れた。武見は、狡猾な悪徳医師たちの罠にはまっていたのである。

  入院して初めてわかった患者の心

 武見は、個人生活ではきわめて自制のきいた生き方をつづけた。
 がんという告知は、医師も家族も行わなかった。しかし、むろん武見はそのことを知っていた。前述の中山が見舞いに行ったときは、がんの服用ぐすりの名をあげ、それを飲んでいると伝えた。中山は、「ああそうです か」という以外になかった。
 武見はつごう3回の入退院をくり返した。手術の前日、あるいは自らの病状が悪化するのを予期したとき、これも3回だが病室に家族を集めて遺言を託した。家族内のことではあったが、3回の遺言はいずれも同じ主旨だった。いずれの場合も初めに、皇室を敬うことが告げられていた。武見は、天皇が現行憲法での象徴の地位にあることは「大変いいことだ」といっていた。大日本帝国憲法下では、天皇は陸軍に利用されつづけたという思いをもっていたからであろう。
 武見はほぼ天皇と同年代だった。天皇に強いシンパシーをもっていた。
 家族が集まってたまたまテレビを見ているとき、明治天皇の映画が上映された。日露戦争のとき、明治天皇は広島に移した大本営で一般兵士と同じ食事をして戦争指導にあたっているシーンが映った。それを見ながら、武見は目に涙を貯めていた。天皇がこれほど苦しい思いをしている、というのであった。
 昭和20年8月15日の敗戦前後の苦悩を、武見は牧野伸顕や吉田茂に開かされていたのだろう。たぶんそのシーンのなかに、天皇の苦悩の像がだぶったにちがいなかった。
 第1回目の入院で手術を終えたあと、武見は前田外科病院を退院する。昭和55年6月のことだ。このときに武見は気心の知れた記者のインタビューに答えている。武見は、入院したのも手術を受けたのも人生で初めてのことで、。もっかは「患者学入門」中だといっている。そのうえで次のように答えている。
 「ベッドに入って、白い天井をながめ、お医者さんと看護婦さんにお世話になって二四時間が過ぎていく。一日24時間が自分のものでないというのが、まず第一に感じたことですね。病気を治すために全時間をコントロールされるのは仕方がない。しかし同時に全生活もコントロールされるわけでしょう。考えてみれぼ、そういうお医者さんをどうやって探すかということは、非常にむずかしい。ぼくの場合、便利な地位にありますから、それができましたがね」(『実業の日本』昭和55年10月1日号)
 良質の医師をさがすことの難しさを正直に告白していた。しかし、これは意外な台詞だった。武見がこのようなことをまったく知らずに医療を担ってきたというなら、彼が唱えた医療の本質とは何かを教えてくれる。武見が見ていたのは、疾病に罹った患者ではなかったことの告白につながをのだ。
 独得のポーズで、坑する者に威圧を与え、従する者にはカリスマ性を感じさせるが、一皮むけば戦後の医療の無責任な側面(医師の患者知らずという面)を武見も一身に背負っていたのだ。医療を経済的サイクルのなかに捉え(むろん武見にとってはそのことは自らの施策の一部ではあったが……)すぎた弊は、武見のナマ煮えの論理から生みだされた必然だったのだ。
 武見の論理が脆弱だったことは、すでに昭和33年に大宅壮一によって指摘されている。(前掲誌)
 「武見の話っぶりは堂に入ったもので、まさに立板に水である。素人にちょっとわかりにくい医学用語−−だけではなく、彼の専門外の理論物理学、生物学、経済学などの専門語や専門理論をちょいちょいまじえるのでたいていのものは煙にまかれてしまう。同じことを何度も話しているとみえて、話の内容は前もって選択され、その効果もよく計算されている。専門外の知識にうとい学者、政治家、財界人などは、一度でコロリとまいってしまいそうである」
 大宅は、武見の理論は借り物と見抜いていたのである。
 今回、武見周辺の関係者を取材しているうちに妙なことに気づいた。医師でありながら東西の哲学や宗教にくわしい人物が多かったことだ。そうしたひとりが、「武見先生というのは勘の鋭い人です。私が話したことを、次には平気で自分のものとして、ときには自分の発見ででもあるかのように話しています。ときどき驚かされました」と告白していた。
 武見の言動は、ある意味で明治人の気骨にあふれていたともいえる。人脈のなかの誰かの気質や考え方や、そして行動のパターンを継いでいた。牧野伸顕や吉田茂の貴族趣味も、仁科芳雄の政治性も、幸田露伴の古武士風の気質も、そして理研で知りあった原子物理学者たちの感性も、その一部ずつが武見のなかに投影されているのである。そういう複合体の人物として、武見は戦後の医療を担ってきた。
 そして、神話に彩られた強烈な個性を売り物に、様々な戦術を駆使した。卓抜な戦術家ではあった。しかし、現在の19兆円にも及ぶ″飽食医療″の流れを変えるような戦略はついにもちえなかったのである。(文中敬称略)
 (ほさか まさやす・ノンフィクション作家)



文藝春秋200202号288頁

武見太郎はなぜ怒ったのか
 保阪正康(ノンフィクション作家)

 昭和50年代初めから60年代にかけて、実に多くの医師、医学部教授、厚生省の官僚などに会っては話を聞いたことがある。そういう折りに必ず名が挙がるのが、当時、日本医師会の会長であった武見太郎である。開業医は、まるでわれわれの代弁者と賛えるかと思えば、厚生省の官僚は、「武見先生の御意見にも充分耳を傾けたいと思っております」とこれ以上ないというほどの敬語でその存在の重さを語る。
 もっともオフレコとなると、「あの人は医師の利益は考えていても、国の財政など考えてもいない。エゴイストですよ」と言ったりする。医学部教授のなかでも、武見の出身校である慶応系の教授は、「あの方がいらっしゃるので日本の医学・医療はバランスがとれている」と嘗めるのに、東大系の教授は、「あんな権力主義者に日本の医療がふり回されているのがこの国の不幸だ」と公然と批判する。
 吉田茂の岳父である重臣・牧野伸願の孫をめとり、政財界に広い人脈をもつ武見は、第一次吉田内閣の組閣にもかかわったとされる。昭和32年から57年まで日本医師会会長のポストに就いていたが、その間一貫して医師の立ち場を強固にすることに努めた。国民皆保険制度のもとで、診療報酬の引き上げを譲らず、医師優遇税制に手をつけることも許さなかった。厚生官僚を大声でどなりつけ、歴代の厚生大臣を「人間的倫理観ゼロの男」「無為無策の大臣」「ボンクラ大臣」などと語るのはまだいいほうで、「二流、三流の伴食大臣に医療行政がわかるわけがない」と片づけたこともあり、「ケンカ太郎」の異名をとった。厚生大臣が就任時に、武見に会うのは慣例になっていたが、「医療行政について今後は教えを乞いたい」と頭をさげた大臣に、「私はあなたの家庭教師ではない」といってのけたこともある。
 診療報酬の引き上げが認められないとなると、保険医総辞退という非常手段をとって医師のストライキという戦略も辞さない。急病の患者にどう対応するのか、という声に「病気になるほうが悪い」とはねつけて世論の反発を買ったこともあった。
 私は武見太郎という人物の存在感の大きさに改めて驚いた。確かに傲慢だし、人を人とも思わぬ人物だ、しかし武見の胸中は果たしてそれだけなのだろうか。彼はやむにやまれぬ怒りに駆り立てられているのではないか。私は次第に武見の心情に興味をもつようになった。武見の口癖である「医師はプロフェッショナル・フリーダムだ」との言には、医学・医療は何ものにも従属してはならないという強い信念が感じられ、そのことを本人に直接質(たず)ねてみたいとも思った。
 そのことを慶応大医学部のある教授(武見派の重鎮)に話をしたら、「そこまでわかったのなら、いつか会わせてあげよう」と約束してくれた。
 あまり知られていないことだが、武見は、自らは保険医にならず、医師会会長という激務にありながら、毎週月曜日と金曜日の午前中は銀座の教文館ビルにあった自らの診療所で診療にあたり、一人の患者に30分、40分の時間をかけていた。会長として、あれほど保険医制度を守ろうとしながら、自らは自由診療に固執し、その医療費は患者の経済状況によって違っていたという。払える者は多く、払えぬ者は少なく、という形で医療を通じて富の偏在を手直しするという古典的な医師の姿勢を守っていた。私は密かにそれを聞かされ、ますます武見という人物に関心をもった。
 残念ながら武見を取材する機会は、私にはついに訪れなかった。武見ががんに倒れたのだ。昭和55年ごろからつごう3回の入退院をくり返し、そして58年12月に4年半の闘病生活を経て逝った。武見は東京・赤坂の前田外科病院に自らの身を託した。この病院を設立した先代と同窓で親しかったからである。
 入退院をくり返すうちに、武見の発言は微妙に変わっていった。私が遺族、前田外科病院医師、そして慶応大医学部教授などに聞いたところでは、武見は身近かな人たちにこんな言葉をもらしていたという。「医師の集団は三分の一は学問、倫理面でもきわめてレベルが高い。あとの三分の一はすべて平均的な医師の集団、のこりの三分の一は欲ばり村の村長さんだ」。この言葉は、三分の一は金もうけしか考えていないだめな医師だが、自分は彼らをもかばわざるを得なかったのだ、という慨歎とも解せるのではないか。
 今ふりかえると、武見の言動は明治人の気骨にあふれていた。官僚や政治家に対しあれほど傲慢にふるまったのも、戦時下において医学・医療をも利用した軍事主導の国策への怒り、そして牧野伸顕、吉田茂などの一族へ弾圧をくり返した軍官僚の横暴に対する反発に端を発している。時代に抗しても自らの道をつらぬいたその生き方は、私たちに一つの範になりえているように思える。